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「第五福竜丸」大石又七さん死去 87歳、吉田町出身

2021年3月22日 05時00分 (3月22日 05時02分更新)
「3・1ビキニデー集会」で核廃絶への思いを語る大石又七さん(右から2人目)=2017年3月、焼津市で(粕谷たか子さん提供)

「3・1ビキニデー集会」で核廃絶への思いを語る大石又七さん(右から2人目)=2017年3月、焼津市で(粕谷たか子さん提供)

 ビキニ事件で被ばくし、核廃絶を訴え続けた焼津市のマグロ漁船「第五福竜丸」の元乗組員、大石又七(おおいし・またしち)さんが七日午前、誤嚥(ごえん)性肺炎のため神奈川県三浦市の病院で死去した。八十七歳だった。静岡県吉田町出身。葬儀・告別式は近親者のみで執り行った。
 十四歳で漁師になり、第五福竜丸に乗り組んで操業していた一九五四年三月一日、太平洋・マーシャル諸島のビキニ環礁で米国が実施した水爆実験「ブラボー」による放射性降下物「死の灰」を浴びた。
 乗組員二十三人全員が被ばく、半年後に無線長久保山愛吉さん=当時(40)=が亡くなった。放射性物質に汚染されたマグロの廃棄なども影響して反核世論が高まり、広島で五五年八月六日、第一回原水爆禁止世界大会が開かれた。
 事件後、上京しクリーニング店を経営。多くの元乗組員が口をつぐむ中、がんなどの病気に苦しみながら自らの体験を語り、核兵器の恐ろしさを伝えた。船体を保存している東京・夢の島の「第五福竜丸展示館」や学校、各地の集会で講演。著書は英訳本を含め五冊を出版した。被ばくマグロが埋め立て処分された東京・築地市場に「マグロ塚」を建てる募金活動を進め、経緯を記したステンレス製の銘板が九九年に設置された。
 二〇一一年三月に東京電力福島第一原発事故が起きてからは、原発も含む「核」の廃絶を強く訴えた。一二年四月、脳出血で倒れたがリハビリで乗り越え、一三年一月に復帰。第五福竜丸展示館の学芸員らのサポートで証言活動を続けた。展示館を運営する公益財団法人「第五福竜丸平和協会」の評議員も務めた。被ばくから六十年の一四年三月にはマーシャル諸島を訪れ、追悼式典であいさつした。
 一九年に転倒して脚を骨折し、神奈川県内の施設に入所。証言活動は困難になったが、訪れた人たちに自身の体験を伝えていた。

◆堂々と語る姿、感動

 大石さんの訃報に、地元のゆかりの人からも惜しむ声が聞かれた。
 核廃絶運動を通じて交流があり、二〇一七年と一八年に焼津市で開かれた「3・1ビキニデー集会」に大石さんを招いた県母親大会実行委員長の粕谷たか子さん(71)=島田市=は「仲間の漁師さん思いで『彼らの無念を晴らしたい。だけど、ビキニ事件のことは(忘れられて)誰も知らないよ』と寂しそうに言っていた」と振り返った。「そのことが、体験を語る使命感につながっていたのだと思う。物事をいいかげんにしない、正義感にあふれた誠実な方だった」といたんだ。
 被ばく体験を語る元乗組員は、二〇一九年二月に見崎進さん=島田市、二〇年二月に池田正穂さん=焼津市=も相次いで他界。「命には限りがあり、いつかは来る時だが、寂しい。核兵器禁止条約が発効した今、核実験がいかに人間を傷つけ、人生を狂わせるか。まだまだ皆さんに実体験から語っていただきたかった」と惜しんだ。
 大石さんの義妹の河村惠子さん(73)=牧之原市=によると、大石さんは被ばく後、周囲の偏見に苦しめられたという。大石さんが沈黙を破ったのは、東京の夢の島に放置されていた「第五福竜丸」の保存運動を知った頃から。被爆体験の語り部として活動を始めた大石さんの講演を河村さんは吉田町で聞き、「上手ではないけれど、堂々と語る姿」に感動したという。
 「人生の中で自分の役割を見いだし、核兵器のない世の中を目指して、語り部としての役割を立派に果たした。尊敬しています」としのんだ。 (酒井健)

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