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第1章 幻の原爆製造 1940~45

2021年2月1日 00時01分 (3月1日 10時12分更新)

東京電力福島第一原発事故は、原発の「安全神話」を根底から覆しました。事故当時、約50基もの原発が稼働していた日本。世界唯一の被爆国でありながら「原発大国」へと変貌を遂げたのはなぜでしょうか。2012年8月~13年6月までの長期連載では、戦後政治に多大な影響を与え、今も日本外交の基軸をなす日米関係を手がかりに、未公開資料や100人以上の証言などから、その謎を解き明かしました。加筆し書籍化もされた「日米同盟と原発」の原稿を掲載します。本文中の肩書きや括弧内の年齢は当時です。「現在は……」などと断りを入れてある年齢は、取材時点です。敬称は省きました。

 戦時下の日本で、極秘裏に進められていた原爆開発計画「ニ号研究」。戦局の一発逆転を狙って軍が主導し、当時、原子核物理の第一人者だった理化学研究所の科学者、仁科芳雄(1890~1951)が開発責任者を務めた。計画は結局、頓挫したが、仁科の下で学んだ若い門下生らの研究は戦後、「平和利用」と名を変えた戦後の原子力開発の礎となった。狭い国土に今や50基がひしめく原発大国・日本。そのルーツを「ニ号研究」から探った。

核分裂反応を研究するため、理化学研究所に設けられた実験装置。性能を示す磁極の直径は当時世界最大級の1.5メートル、総重量は220トン。中央奥にいるのが仁科芳雄氏=仁科記念財団提供

どうにかできそうだ

 一九四〇(昭和十五)年夏の蒸し暑い朝。東京・新宿から立川に向かう国鉄中央線の車中。立川の陸軍航空技術研究所に出勤途中の陸軍中将、安田武雄(51)は、旧知の科学者と偶然乗り合わせた。
 科学者の名は、仁科芳雄(49)。東京帝大電気工学科を首席で卒業後、一九一八年から理化学研究所で研究員として働いていた。英国、ドイツ、デンマークなど欧州の研究所にも留学し、最新のエックス線や原子核物理を学んでいた。日本の原子核研究の第一人者だった。

仁科芳雄氏

 仁科は安田の顔を見るや、あいさつもそこそこに切りだした。「例の話ですけれど……」。二人が以前から話題にしていた原爆。当時は「ウラニウム爆弾」と呼んでいた。
 安田が戦後、雑誌『原子力工業』に寄せた手記によると、仁科はこの時、初めて原爆製造の実験研究に着手する用意があることを伝えた。安田は「遠い未来の夢だと考えていたが、心おのずと弾むのを禁じ得なかった」と喜んだ。仁科の「いささか勢い込んだ様子」に、期待を膨らませた。どうにか、できそうだ―。
 仁科と安田が出くわしたころ、日本はドイツ、イタリアと三国同盟を締結する寸前だった。ヒトラー率いる独軍は前年の三九年九月、ポーランドに侵攻。三国同盟は欧州戦線の火種が日本に飛び火することを意味していた。日本軍は泥沼が続く日中戦争に加え、米英仏などの欧米列強との戦に備える必要があった。
 安田は、裏付けを急ぐ。仁科と別れた後、東京帝大で二年間物理を学んだ陸軍航空本部少佐の鈴木辰三郎(28)に、別ルートから原爆製造の可否を確かめるよう命じた。
 鈴木は、理研の若手研究者、嵯峨根遼吉(34)に相談する。嵯峨根は「日本物理学の草分け」とされる長岡半太郎(一八六五~一九五〇)を実父に持ち、米国で人工放射能を研究した俊英。嵯峨根の話をもとに、鈴木はその年の十月、安田に「原子爆弾は出現する可能性がある」と報告する。
 それから半年後の四一年四月、安田は理研所長の大河内正敏(62)を訪ね「原爆製造の研究をお願いしたい」と申し出る。実は、米国に亡命していたユダヤ人科学者、アルベルト・アインシュタインから進言を受けた米大統領フランクリン・D・ルーズベルトが原爆開発の「マンハッタン計画」をスタートさせたのも、この年のことだった。
 仁科と安田の運命の出会いから一年もたたずにスタートした日本の原爆開発。その八カ月後、日本軍が真珠湾を奇襲攻撃し、日米が相まみえるのを当時の二人は知る由もなかった。

仁科芳雄(にしな・よしお) 岡山県新庄村(現・里庄町)の資産家の四男として生まれた。理化学研究所では、最年少の四十歳で主任研究員に抜てきされ、原子核を研究した。戦後は日本学術会議の副会長を務め、国際会議で原子力の国際管理を提唱した。門下生は戦後の原子力開発の中心を担い、湯川秀樹と朝永振一郎の両氏はノーベル物理学賞を受賞した。一九五五年に設立された仁科記念財団は、原子物理学に功績を残した学者に「仁科記念賞」を授与している。


戦争の死命を制する

 陸軍航空本部が後押しする形で進められた原爆開発。一九四一(昭和十六)年十月、発足したばかりの東条英機(56)内閣は次年度の政府予算案に理化学研究所への委託研究費として八万円(現在の四億円相当)を計上し、財政面でも支援した。
 理研は日本初の研究機関として一七年に設立された。欧米で最先端の化学や物理などの基礎科学を学んだ新進気鋭の若手科学者がそろっていた。仁科は原爆開発に、そうした若手の部下を起用した。
 東京帝大でウラン化合物を研究した木越邦彦(22)もその一人。二十人ほどいたメンバーのうち数少ない生存者で、現在九十三歳の木越は当時の研究の様子をこう振り返る。
 「仁科先生から『原爆ができると思ってやっているのか』と聞かれて『さあ……』と答えたら『そんな気持ちでやっているのか』と怒られた。やると決めたらまっしぐら、猪突(ちょとつ)猛進型だった」
 それでも木越は、懐疑的だった。「先生が本気で原爆を作ろうとしていたのかは今でも分からない。『研究室に入れば、徴兵されずに済むぞ』と言われたことがある」と証言する。今振り返ると「軍の研究を請け負って、研究費をもらうというところに本当の狙いがあったのではないか」と推測する。
 木越は当時、研究室の仲間と「本当に研究がうまくいくのなら、原子力のエネルギーがいっぱい手に入り、戦争なんてしなくて済むじゃないか」と皮肉まじりに語っていたという。「僕は、核分裂のエネルギーが軍艦や飛行機の動力源になるのかに関心があった。爆弾製造は夢物語で、具体的には考えられなかった」と打ち明ける。だから、原爆の材料になる六フッ化ウランの製造にめどが立った時も「『原爆の製造に近づいた』というより『新たな化合物をこの手で作った』という、研究者としての純粋な喜びが大きかった」と話す。
 果たして仁科の本心はどうだったのか。
 研究に参加した木越の同僚、武谷三男(30)の著書『原子力と科学者』によると、日本軍が真珠湾を攻撃した二日後の四一年十二月十日に開かれた理研の会議で、仁科は戦争目的としての原爆に触れず、こう語っている。
 「戦争が終わって比べた時、日本の科学がアメリカに劣ったのでは、甚(はなは)だみっともない。日本国の威信のために純粋研究を進めなければならない」
 ところが、日本の戦局が不利になると、仁科の発言は微妙に変化する。研究室には、陸軍の将校が派遣され、見張り役のように研究の進展を監視していた。ミッドウェー海戦で日本軍が大敗した数カ月後の翌四二年十月、仁科は新聞への寄稿文でこう書いた。
 「今日の時局においては軍備・産業に直接関係のある応用研究に重点を置くべきである」
 それから五カ月後の四三年三月、仁科は、ほぼ二年余りに及ぶ研究成果として「原子核分裂によるエネルギー利用の可能性は多分にある」とする報告書をまとめ、陸軍航空本部に提出した。
 報告書自体の存在は知られていたが、詳細は戦後六十年以上たっても公にされることはなかった。そのコピーをニ号研究に参加した研究者の一人が戦後も保管しており、取材班は学習院大の江沢洋名誉教授(理論物理学)を通じて入手した。江沢教授は『仁科芳雄往復書簡集』の編集などに携わっていた。
 それによると、報告書は全部で七ページ。結論に相当する判決欄には「原子核分裂によるエネルギー利用の可能性は多分にあり」と明記してあった。続く所見欄には「連鎖反応はいったん起これば極めて短時間に進み、莫大(ばくだい)なるエネルギーを放出する」「強力なる爆弾として用いられる可能性あり」などとの記述があり、原子力爆弾に転用できる可能性に言及していた。三十一キログラムの水に濃縮ウラン十一キロを混ぜた場合、「普通の火薬一万トンのエネルギーに相当する」との計算もあった。東京工業大の山崎正勝名誉教授(科学史)は「日本の戦時核開発の歴史の中でももっとも重要な文書の一つ。爆発の威力を、米軍が広島に投下した原爆と同じ規模と予測していたことは、注目に値する」

 陸軍を通じ、仁科の報告書を受け取った首相の東条は航空本部総務課長の大佐、川嶋虎之輔(45)を呼んだ。
 防衛省防衛研究所の図書館に所蔵されている川嶋の手記「原子力の開発について」には、東条が指示した内容が書かれてあった。
 「特に米国の研究が進んでいるとの情報もある。この戦争の死命を制することになるかもしれない。航空本部が中心となって促進を図れ」

仁科氏が陸軍に提出した報告書のコピー。「連鎖反応ハ一旦起レバ極メテ短時間ニ進ミ莫大ナルエネルギーヲ放出スルガ故ニ強力ナル爆弾トシテ用ヒラルル可能性アリ」と書かれてある

決死のUボート

 理化学研究所の仁科芳雄らを最後まで悩ませたのが天然ウランの確保だった。必要としたウランは二トン。占領下の朝鮮半島や南方のマレー半島からの調達を試みたほか、遠い欧州にも目を向けた。
 陸軍は、ドイツ占領下のチェコスロバキアで「ピッチブレンド」というウラン鉱石が採れるとの情報を入手していた。一九四三(昭和十八)年七月、陸軍航空本部の大佐、川嶋虎之輔(45)が駐ドイツ大使の大島浩(57)に送った極秘電報を、米軍が傍受している。米公文書館に残るその電報コピーには次のようなやりとりがあった。
【7月7日東京→ベルリン】「日本にピッチブレンドを輸出できるか、早急に調査せよ」
【9月1日ベルリン→東京】「ピッチブレンドを入手する交渉を続けるので、研究目的の重要性を示す文書を送ってほしい」
【11月15日東京→ベルリン】「一トンの酸化ウランを入手せよ」
 大島はナチス幹部と交渉したが、なかなか許可が下りない。当時、ドイツも原爆開発を進めており、日本への警戒感が強かったためとみられている。
 ようやく認められたのは極秘電報から一年以上もたってから。四五年三月二十四日、酸化ウランを積んだ独潜水艦Uボート「U234」が独北部のキール港から日本へ向かうことが決まった。
 護衛として、欧州に駐在する二人の日本人技術将校が搭乗した。ドイツで潜水艦の設計を学んでいた友永英夫(36)と、イタリアで飛行機の研究に携わっていた庄司元三(41)の両中佐だった。

友永中佐=「大和ミュージアム」提供

 欧州戦線は、連合国軍がドイツの首都ベルリンに迫っていた。バルト海から大西洋の海域も支配され、日本にたどり着ける保証はなかった。
 友永と庄司は、敵に拿捕(だほ)された時は自ら命を絶つ決死の覚悟だった。家族にあてた遺書をしたため、睡眠薬ルミナールの瓶を持って艦に乗り込んだ。
 U234を題材にしたノンフィクション『深海からの声』(新評論)によると、当時、乗組員の間でベルリン出身の女優、マレーネ・ディートリヒが歌う「リリー・マルレーン」がはやっていた。乗組員らは「大洋の底に沈んでも一番近い岸まで歩いていこう君のところに」と歌詞を替え、気持ちを奮い立たせた。
 キール港をたってから一カ月余り後の五月一日。U234の無線通信室に「ヒトラー総統死去」の連絡があった。ヒトラーは戦局を悲観し、その前日にピストル自殺した。七日にはドイツが連合国に降伏し、日本とドイツの同盟関係が破棄された、との情報も入った。

庄司中佐=「大和ミュージアム」提供

 動揺する艦内で、友永は艦長のヨハン・フェラーに「生きたまま敵側に引き渡されるのは許されない。このまま日本へ行ってください」と、航海続行を申し出たが、かなわなかった。艦は連合国軍の停船命令を受け入れ、ドイツ人乗組員は全員投降を決めた。
 友永と庄司は、持っていたルミナールをあおった。二人はフェラーにあて「運命には逆らえません。静かに死なせてください。遺体は海に葬ってください」と、ドイツ語の遺書を残して自決した。
 五月十四日の夜。艦は静かに洋上に浮かび、エンジンを止めた。二人の遺体は重しとともに漆黒の海に降ろされた。十分間の黙とうがささげられた。
 U234の積み荷は、米軍が直ちに押収した。戦後、米国が公開した公文書によると、積載した酸化ウランは五百六十キログラムで、仁科らが望んだ二トンにははるかに及ばなかった。しかし、それこそ二人の将校を犠牲にしてまで陸軍が守ろうとしたものだった。

1945年5月、大西洋上で米駆逐艦「サットン」に捕まった独潜水艦「U234」(右)。この時、日本人将校2人は既に自決していた=友永中佐の長女、吾郷洋子さん提供

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