本心<145>

2020年2月2日 02時00分 (5月27日 03時48分更新)

第七章 転機

 僕はまた、彼女を見つめていたが、それに彼女が気づいていないことに、窃視的な疚(やま)しさを感じて、わざと少し足音を立てながら冷蔵庫に麦茶を取りに行った。ふと、彼女を自分の姉のように感じることは出来ないのだろうかと考えた。家族というならば、母の代理、という方が、自然に思いつきそうなことだったが、その考えを僕は嫌悪感と共に峻拒(しゅんきょ)した。
 一杯、飲み干した麦茶が、食道を通って胃に辿(たど)り着くまでの道行きを、その冷たさを追うようにして感じた。ビールは缶一本程度だったので、酔ってはいなかったが、喉が渇いていた。
 三好は、いつの間にか横を向いていて、自分のからだを出来るだけ小さくしようとするように膝を抱えていた。胎児だった頃を追体験するアプリでも使っているのだろうか? その姿が、夕方、ベッドに横たわっていた僕自身と似ているであろうことに、僕はハッとした。
 彼女の方こそ、今日は何か聞いてほしいことがあったのかもしれない、と初めて考えた。僕の憔悴(しょうすい)を看(み)て取って、彼女はそれを引っ込めてしまったのではあるまいか。
 彼女の分のお茶を注(つ)いで、歩み寄り、肩に触れて声をかけようとしたが、その程度の行為でさえ、僕に対するまだ壊れやすい信頼は破綻してしまう予感がした。
 僕は、少し離れた場所から、
「三好さん、大丈夫ですか?」
 と尋ねた。
 彼女は、恐らく僕の気配を察していたのだろう、驚いた様子もなく、ゆっくりとヘッドセットを外しながらからだを起こした。そして、どこか遠い場所から、僕のいるリヴィングに――つまり、現実に――戻ってきたような、少し疲れた表情を見せた。むしろ、泣いていたかのように目が赤らんでいたが、彼女は、平気だという風に頷(うなず)いてみせた。ちらと僕を一瞥(いちべつ)したが、俯(うつむ)いて、顔に掛かる髪を軽く手で払った。
 僕はふと、触れることなしに、三好はどうやって、僕が仮想現実ではないと見分けられたのだろうかと、埒(らち)もないことを考えた。そして、僕はと言うと、触れないことで、<母>が実在しているかのように思い做(な)しているのだったが。
(平野啓一郎・作、菅実花・画)
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