本心<144>

2020年2月1日 02時00分 (5月27日 03時48分更新)
 <あらすじ> 石川朔也のリアル・アバターという仕事は、同僚・岸谷が前財務大臣襲撃容疑で逮捕され注目を浴びる。同じ頃、朔也は台風で被災した亡き母の友人・三好彩花と共同生活を始めた。リアル・アバターを嘲弄(ちょうろう)するような依頼を受け、疲弊した朔也だったが、三好には話さずにいようと決める。

第七章 転機

 バスタブの縁に頭をもたせかけて、僕は湯に浸(つ)かって、しばらく目を瞑(つぶ)っていた。夕方の帰宅直後とは違って、三好と一緒に食べた夕食が、僕の心に安らぎを与えていた。
 僕は努めて、この今の僕に留(とど)まろうとした。僕は、記憶喪失に憧れた。ただ、ほんの数分しか、自分の経験を覚えていられない病気の発作を願った。そして、悲しみを忘れることが出来るのと同時に、喜びの思い出までをも忘れなければならないとするなら、僕は、その条件を受け容(い)れるだろうかと考えた。今日一日のことを、パソコンのファイルのように、クリック一つで丸ごと消去できるとするなら?――パソコンのファイル? 寧(むし)ろ、こう問うべきだった。すべての思い出が消滅する「死の一瞬前」に、僕はそのことに安堵(あんど)を覚えるだろうか、それとも惜しいと感じるだろうか、と。……
 リヴィングに戻ってくると、三好の姿はなく、ただそのシャンプーの香りだけが広がっていた。よく見ると、短パンにTシャツ姿の彼女は、ヘッドセットをつけて、ソファではなく、床に仰向(あおむ)けに寝転がっていた。素足の片膝を立てて、両手を開いていたが、時折、何かに触れようとするように、ゆっくりと宙に腕を伸ばした。
 彼女は、何か大きな抱擁を受け容れているかのように、自分の全身を曝(さら)け出していた。
 僕は、下着をつけてない胸が、そのくつろぎを白いTシャツに無防備に響かせているのに目を留め、視線を逸(そ)らした。彼女がセックスワーカー時代に揮(ふる)われた暴力を思い出し、どうしてこんなに無防備に振る舞えるのだろうかと、訝(いぶか)った。
 腸炎で苦しんでいた時とは違い、彼女のからだは、健康で、清潔で、安らいでいる。
 僕は恐らく、信頼されているのだった。少なくとも、急に馬乗りになって、首を絞めながら衣服を剥ぎ取ろうとする人間とは見做(みな)されていないのだった。
(平野啓一郎・作、菅実花・画)
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