本心<146>

2020年2月3日 02時00分 (5月27日 03時48分更新)

第七章 転機

 実際、僕はこれまで、<母>のからだに腕を伸ばしてみたことさえなかった。
「また、どこかのリゾート・ホテルにでもいたんですか?」
「ううん。」
 彼女は首を振ると、僕にヘッドセットを差し出して、
「朔也(さくや)君もやってみる? 《縁起Engi》っていう、壮大なアプリなんだけど。」
「エンギ?」
「仏教の<縁起>って知ってる? この世のすべては相対的で、一切は空だっていう、……」
「ああ、……何となくは。」
「それを、宇宙の長ーい時間を通じて体験するアプリなの。本当に仏教の思想を説明するっていうより、多分、象徴的につけてる名前だと思うけど。」
「そんなのあるんですか。……よくやるんですか?」
「時々。お気に入りなの。わたしの人生って、何なのかなとかって思い悩む時に、スゴく深い没入感がある。」
「宇宙空間に、ですか?」
「宇宙そのものに。地球の誕生から消滅までの時間も、もちろん含めて、全部。恐(こわ)さと、心が軽くなる感じと。」
 僕は、先ほどの幸福感に満ちた夕食の余韻の最中(さなか)で聞くには、いかにも寂しいその呟(つぶや)きに、微笑しただけだった。
 何か言いたかったが、あまり良い言葉は思いつかなかった。
「三好さんが、この家をシェアしてくれるようになって、僕は嬉(うれ)しいですけど。」
「それは、わたしも、独り暮らししてた時よりずっといいし、朔也君にも感謝してる。けど、……うまく言えないけど、わたし、死ぬことが恐いの。誰でもそうだろうけど、わたし、人並み以上なんじゃないかって気がする。自分の人生が、結局、何でもなかったって感じながら、どうやって死を受け容(い)れたらいいか、わからないの。」
 僕は、跪(ひざまず)いて、膝に両腕を突っ張らせて話を聴いていたが、それに対する返答を考えながら、三好と同じように床に腰を卸(おろ)した。
「“死の一瞬前”って、……考えたことあります?」
「――?」
(平野啓一郎・作、菅実花・画)
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