本心<147>

2020年2月4日 02時00分 (5月27日 03時48分更新)

第七章 転機

「母が、安楽死を望んでいた理由の一つなんです。それも、藤原亮治の本の影響らしいんですけど。……“死の一瞬前”に、この世で最後に何を見て、どんな気分でいたいのか。――母は、その時には、僕に側(そば)にいてほしいって言ったんです。僕と一緒にいる時の自分のまま死を迎えたい、他の人といる時の自分では死にたくないって。結局は、見知らぬ若い救急医に見下ろされながら死んだんですけど。」
「……そう。」
「どういう状況で、誰といる時の自分を、命がなくなる最後に生きたいですか? それが実現するなら、死ぬことの恐怖も、少しは和らぐんでしょうか?」
 三好は、僕がまだ話し終えないうちから、待ちきれぬように、小さく何度も首を振っていた。
「そんなの、何にもない。そんな人もいないし。……今だったら、最後の瞬間にも、どこかの仮想現実の中にいると思う。天使が迎えに来てくれて、虹色の門が静かに光り輝いてる天国が見える光景とか。」
「三好さんは、死後の世界を信じますか?」
「死後の世界って、この世界よ。わたしがただ、火葬されて、骨と灰と二酸化炭素になっちゃうってだけで。」
「霊魂の不滅とか、そういうのは信じないんですか?」
「朔也(さくや)君、信じる?」
「僕は、……信じられたらいいなと思いますけど。」
「何か宗教を信じてる?」
「いえ。」
「わたしもよ。死んだら終わり。」
「二酸化炭素、ですか。」
「燃焼って、理科で習ったでしょ? 酸素と少しずつ結びついていって、宙に放たれていくのよ。」
「そこまで知ってるなら、“死の一瞬前”に天国の仮想現実とか見ても、意味ないですよね。」
「そうでもないと思う。その瞬間に、錯覚でも心地良くなれるなら。――だって、宗教だってみんなそうでしょう? ありもしない天国の話で、死の恐怖を慰めてるんだもの。ヘッドセットつけて、夢のように美しい仮想空間の光景を見ながら死ぬのと同じよ。それが悪いって言ってるんじゃないの。宗教って、人生にいいことがなかった人のためのものでしょう?」
(平野啓一郎・作、菅実花・画)
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