本心<149>

2020年2月6日 02時00分 (5月27日 03時48分更新)

第七章 転機

 星の数は、夥(おびただ)しかった。僕の肉体は、仮想空間に取り込まれておらず、手を見ようとしても、お腹(なか)を覗(のぞ)き込んでも、何も見えない。ただ意識だけが、広大な宇宙に漂っているかのようだった。
 外のマイクから、三好の声が聞こえた。
「音声で指示を出せるから。朔也(さくや)君は、初めてだから、ダイジェスト版ね。――しばらくの間、一億年を一分で体験できる設定になってるけど、時間も場所も、そのうち、自動的に変化するから。説明の文章も表示されるけど、ウルサかったら切ってね。」
「……はい。」
「朔也君は、宇宙空間の“何か”なの、ずっと。元素とか、すごく小さい何か。……だから、もちろん、意思なんてないはずだけど、疑似体験だから。――逆に言えば、宇宙そのものなの。色々なことが起きてるものすごく大きな宇宙の一部分。……」
 右端には、宇宙誕生後の時間経過が表示されている。
 宇宙の始まりは、一三七億年前らしい。その「一〇のマイナス三六~マイナス三二乗分の一秒」という、僕が人生に於(お)いて、一度として認識できた例(ためし)もないような短い時間のあとで、<インフレーション>と呼ばれる、ほんの数ミリの点が宇宙全体となる凄(すさ)まじい加速膨張が起き、ビッグバンが開始された。そして、宇宙誕生後の三分間で、この宇宙を構成するすべてが準備された、との解説だった。――つまり、今、僕というかたちに寄り集まっている六十四キログラムほどの物質も。……それをイメージ化した映像は、一種の回想のようだった。
 僕がいるのは、その一二億年後という設定らしい。
 科学的に、どこまで厳密に作られた風景かはわからないが、既に星も誕生していて、その光の点(とも)り方には、どれほど目を凝らしても、ヘッドセットの機械的な限界が感じられず、ゾッとするような果てしない奥行きがあった。
 僕は、真空の暗闇と同化してしまったような息苦しさを感じた。それは、自分の鼻や口、気管や肺が、どこにあるのかわからないことによる、奇妙な窒息感だった。
 完全な静謐(せいひつ)の世界だったが、映像だけの仮想空間というわけではなく、何か音響的な工夫によって無音が表現されている感じもした。
(平野啓一郎・作、菅実花・画)
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