本心<151>

2020年2月8日 02時00分 (5月27日 03時48分更新)

第七章 転機

 地球までの距離が、三〇〇光年、一〇〇光年、……と刻々と縮められていく。
 一〇〇光年。――つまり、宇宙船で五四万年かかる距離。
 僕は、それだけの時間、故障せずに飛び続ける宇宙船という夢想に恍惚(こうこつ)となった。
 視界の先には、やがて、青い点のような光が見えてきた。それが、眸(ひとみ)の大きさになり、翡翠(ひすい)の丸玉大となり、……教会の薔薇窓(ばらまど)となって、瞬く間に視界の全体を青い光で覆い尽くし、僕を呑(の)み込んでいった。
 突然、僕は頭が吹き飛んでしまうほどの轟音(ごうおん)に見舞われた。
 隕石(いんせき)のように、大気圏へと突入して、落下した海の中で爆発した。ライトブルーが、突然、目の中に溢(あふ)れ出し、水の音と空気の泡で僕を揉(も)みくちゃにした。頭上に空が現れ、色彩が奔出し、太陽に照りつけられた。
 ……そこからの地球の時間は、断片的な光景として、記憶のように飛び飛びに切り替わっていった。時間の流れは、一定ではなく、やがてその表示が読み取れないほどに速くなった。
 海中を泳ぐカンブリア紀の珍奇な生物。……飛翔(ひしょう)する恐竜の影。……仲間の肩越しにサバンナを見ているホモ・エレクトゥス。……虫。……火山の噴火口。……雪。……松明(たいまつ)。……氷河。……人類が「全地の表」に散ってからは、一瞬毎(ごと)に風景が変化した。
 僕は無論、ただ見ているだけでなく、その都度、それぞれの場所に存在していた。何かとして。――古代ローマ皇帝の霊廟(れいびょう)、貴族の牛車が行き交う鴨川縁(かもがわべり)、北極のオーロラ、モスク、……出産直後の新生児、塹壕戦(ざんごうせん)、……娼家(しょうか)、……原爆、ロック・コンサート、……愛し合う男女、公園、父親らしき男の涙、……キリマンジャロ、……稲作、……学校でのリンチ、リオの繁華街、9・11同時多発テロ、……ウォール街、……公園で遊ぶ子供たち、アニメ、雪だるま、寝たきりの老人、ギャング、浜辺の午後、……受付ロボット、……変化は目まぐるしく、僕が認識し得たのは、いかにもそれとわかる僅(わず)かな景色に過ぎなかった。
 やがて唐突に、薄い雲が懸かった青空が見えて、それが数秒間続いた。
(平野啓一郎・作、菅実花・画)
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