本心<150>

2020年2月7日 02時00分 (5月27日 03時48分更新)

第七章 転機

 遙(はる)か彼方(かなた)まで、聞こえない、というもどかしさが広がっている。
 僕は、微(かす)かに自分の呼吸音を拾っていたマイクを止めた。
 肉体がないということは、僕を外界から距(へだ)て、僕自身に閉じ込める輪郭がないということだった。誰も僕を認識できない。僕は、という主語は、宇宙は、という主語と差し替えても構わないように感じた。僕の遠い彼方で、星が生まれ、僕はダークマターで満たされ、僕は今も膨張し続けている、と。
 僕は、一億年が一分間で自分を流れてゆくのを体感し、その意味を考えようとした。一〇〇年が一〇〇回繰り返され、更(さら)にその一万倍の時間が経過するということ。……
 宇宙のどの辺にいるのかはわからなかった。何の気なしに後ろを振り返り、下を向いてまた元の姿勢に戻ったが、それは、数千万年に及ぶ長い一瞥(いちべつ)のはずだった。
 僕は、再び目を遣(や)った正面の星々に、その間、どんな変化があったのかを知りたかった。なぜ宇宙人に出会えないのか? それは、宇宙が広すぎるだけでなく、その時間が長すぎるからだった。今ならどこかに、宇宙人がいるのかもしれなかった。そして、もう全滅してしまったのかもしれない。
 僕はそのまま、一〇億年近く、その場に留(とど)まっていた。その一一五億年後に、広大な宇宙空間に散らばっている元素が寄り集まって、僕という人間のかたちになる。そして、ヘッドセットをつけ、仮想現実を通じて、この今という時を、再度、疑似体験するのだった。――そんな無体なことを、ぼんやりと想像した。
 三好は、ダイジェスト版と言っていたが、やがて僕はゆっくりと移動し始め、何億光年もの距離を猛然と超えていった。視界の全体が、光の飛沫(ひまつ)のような星に埋め尽くされ、途方もない虹を溶かしたような、大理石の莫大(ばくだい)な渦のような模様を彼方に掠(かす)めた。
 銀河系に突入し、幾つもの矮小銀河(わいしょうぎんが)を潜(くぐ)った。僕は、太陽系を目指しているのだった。
 画面の端に、小さな字で、
「一光年は、音速で約八八・二万年、宇宙船で約五四〇〇年の距離」
 と表示された。
(平野啓一郎・作、菅実花・画)
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