本心<152>

2020年2月9日 02時00分 (5月27日 03時48分更新)

第七章 転機

 しばらく考えていて、僕は戦慄(せんりつ)した。それは恐らく、僕自身が焼かれ、二酸化炭素になった日なのだった。僕は、自分が石川朔也(さくや)という固有名詞と共に存在していたことにまるで気づかず、そして、それは既に終わり、また元の宇宙の一部の些細(ささい)な出来事となり、つまりは宇宙そのものに戻ったのだった。……
 地球の時間は、現在を追い越し、未来に向けて目まぐるしく続いたが、それはあまり長くはなく、僕は未来人の感傷を先取りした。
 僕は、燃え盛るアマゾンの森林や、水没する太平洋の小島の直中(ただなか)にいた。人と区別のつかないロボットと立ち話をしていた。……閑散とした、荒廃した東京で、誰かに呼び止められた。……ドローンの爆撃。……公園の噴水の周囲を駆け回る子供たち。……家族の食卓。……観葉植物の葉が落ちる時。……
 何もかもが、一三七億年目に宇宙でただ一度だけ生じた、僕という人間がもう存在を終えてしまったあとの光景だった。
 僕はやがて、何の変哲もない、小雨が降る公園の遊歩道の縁になった。
 二酸化炭素として、大気中に放出された僕の何かが、長い時間を経(へ)て、恐らくその辺に落ちているのだろう。
 人類が絶滅し、植物に呑(の)み込まれて崩壊してゆくビルを遠くに眺めた。その雷鳴めいた音と振動を感じた気がした。
 青い、美しい羽の鳥が一羽、飛んでいた。
 もういなくなってしまった人間たちに、懐かしさを感じた。そう言えば、そんなような生き物が、しばらく、この星で、我が物顔でのさばっていたのだった。
 砂漠のような無人の光景が広がり、音がなくなった。瞬(まばた)きした隙に、僕はその全体を見失ってしまい、気がつけばまた、宇宙空間にいた。
 宇宙時計を見ると、二四〇億年を過ぎたところだった。地球は既に死に絶え、太陽も燃え滓(かす)のような白色矮星(はくしょくわいせい)に変わってしまっていた。
 僕はきっと、何億年も、気を失っていたのだった。
 僕は、何万光年、何億光年という距離を乗り越えて、僕に届き続けている彼方(かなた)の無数の星々の光が貫通してゆくのを感じながら、一度は、この僕という人間を構成していた元素は、どうなるのだろうかと考えた。
(平野啓一郎・作、菅実花・画)
※転載、複製を禁じます。

関連キーワード

PR情報