本心<154>

2020年2月12日 02時00分 (5月27日 03時48分更新)

第七章 転機

 かつて一度でも、僕という人間を構成した元素と、母を構成していた元素とが、この広大な宇宙で再び触れ合うということは、あるんだろうか?
 宇宙は、観測可能な範囲だけでも九三〇億光年もの直径があるという。
 その全体の百億年単位の時間の中で、僕が今、こうして考えていることの意味は、一体、何なのだろうか?
 真(ま)っ当(とう)に生きようと、罪を犯そうと、それが一体、何だというのだろう? 僕が誰かを殺し、誰かに殺されたとして、それが一体?もし僕が、即(すなわ)ち宇宙だとするなら? 巨大隕石(いんせき)が恐竜を絶滅させることも、母が安楽死を願いながら側溝に落ちて死んだことも、すべては一連の現象に過ぎないのだろうか?……
 しかしだからこそ、僕は、僕という存在のこの意識に、愛(いと)おしさを感じた。その出現と、束(つか)の間の儚(はかな)い持続は、奇跡的に尊い何かではあるまいか。そう考えることで、僕は、この自分の生を、宛(さなが)ら肯定できるんだろうか? 金持ちたちの世界に、際限もなく吸い取られ続けているこの命に対して、力強く首を縦に振るのだろうか?
 三好は、この宇宙と一体になることで、死の恐怖を克服できるんだろうか? 本当は、この宇宙の姿こそが現実で、人間の世界など、言わば仮想現実に過ぎないのだ、と。木々の緑も、鳥の鳴き声も、ただ人間の感じ方一つであのように存在しているのだから。
 三好は今、どこにいるんだろう? 彼女はやっぱり泣いていたんだろうか? なぜ? この巨大な宇宙の、ほとんど無にも等しい小さな元素の集まりである彼女は、僕から今、どれくらい遠くにいるんだろう?……

第八章 新しい友達

 僕は、会社から四ヶ月間の業務の停止を通告されたが、これは実質的には「解雇」に等しかった。この仕事に就いている者たちに、四ヶ月間も無給で過ごせる余裕などあろうはずがなく、辞めていった同僚たちも、最後は大抵、同様の措置の下で、自ら廃業せざるを得なくなっていた。
(平野啓一郎・作、菅実花・画)
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