本心<165>

2020年2月23日 02時00分 (5月27日 03時48分更新)

第八章 新しい友達

 一人は、ほとんど口を開かず、居眠りしていない時には、あまり面白くもなさそうにパズル・ゲームに没頭していた。ちらと覗(のぞ)いてみると、「9608ステージ」目に挑戦しているところだった。
 もう一人、僕より一回りくらい年上の男は、始終苛立(いらだ)っていて、昼休みには、ベトナム経済が近々崩壊して、また以前のように、日本への出稼ぎが激増するといった、ネットで読み囓(かじ)ったような話を、差別意識を丸出しにして、熱心に語っていた。
 僕は、ゲームをする習慣がないが、こういう時のために、何か一つくらい、ケータイにアプリを入れておくべきだと後悔した。
 勿論(もちろん)、どんな境遇にいようと色んな人間がいる。金持ちがいつも知的で優しいわけでもないし、貧乏人が皆、愚かで意地悪だとも言わない。しかし僕は、彼らとの会話に感じた退屈を、何かこの階層に特有なことのように感じるのを禁じ得なかった。僕は、自分が一生、こうした毎日を過ごすことを想像して、耐え難い気持ちになった。帰宅後は、ネットの世界に逃げ込めるだろうが、それでバランスが取れるのだろうか?
 三好に言わせれば、僕が彼らと「話が合わない」理由は、結局、母がかつては裕福で、読書家で、つまりは「あっちの世界」の人間だからなのだった。それを聞いた時には、僕は彼女への共感に冷や水を浴びせられたように感じ、一体、どこが「あっちの世界」の人間なのかと訝(いぶか)ったものだった。そして、理不尽な格差を是認したまま、「こっちの世界」から「あっちの世界」に行くことを夢見ている彼女に、控え目に反論した。
 けれども僕は、三好のあの、ただ「あっちの世界」に行きたいという願望を、この一週間ほど強く抱いたことはなかった。世の中全体が、もっと良くなるべきだと思うより、とにかく、あの二人を置き去りにして、「こっちの世界」のこの場所から抜け出したいと、心底、思っていた。
 僕は、この人たちとは違う。――惨めな自尊心に喘(あえ)ぎながら、僕は念仏のように心の中で繰り返していた。ここは自分のいるべき場所ではなく、去るべき場所なのだった。すると、どうだろう? ここが良くならなければならないという愛着など持ちようがない。
(平野啓一郎・作、菅実花・画)
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