新庄のスペルがSHINJYOからSHINJOになった理由【大慈彌功コラム特別版】
2020年12月7日 06時00分
【新庄剛志48歳の挑戦4】
メッツと新庄の契約発表は2000年12月11日。秘密裏に事を運んでいたので、発表直後はかなりの批判を浴びた。
もっとも、我々は協約違反になるようなことは一切していない。新庄は日米野球開催中の11月9日にFA宣言選手としてコミッショナー公示されていた。接触はその後。ただ、夜討ち朝駆けで私の自宅まで来られた報道関係者の方々に最後までシラを切り通したことには、申し訳ない気持ちで心苦しさがあった。
故星野仙一さんからもご批判をいただいた。星野さんとは2017年2月、楽天のキャンプ地で福田功さんの紹介で初めて言葉を交わすことができた。「以前、新庄の件でお叱りを受けた大慈彌です」と自己紹介をすると、「あなたが大慈彌さんですか」と笑みで返され、わだかまりがスッとなくなった。翌年もお会いしたかったが残念な結果になってしまった。
新庄との交渉で1つだけ要望があったのが、補殺数に出来高を付けてほしいという事だった。これにはNPBと、勝利優先のメジャーとでは出来高に関する考え方に違いがあり、応えることはできなかったが、肩には相当な自信を持っていることを物語っていた。
ちなみに正しくは「Shinjyo」のスペルが米国で「Shinjo」になったのは、私の単純なミスから。スカウティング・リポートに思い込みで「Shinjo」とつづったのである。
移籍1年目は大方の予想をいい意味で裏切った。太ももの肉離れもあり123試合出場で438打席にとどまったが、打率2割6分8厘、10本塁打。またメジャーでもトップクラスの守備力を発揮し、費用対効果抜群の成績を残した。ルーキーの中から選ばれるオールスターにも選出され、発掘した私も表彰されてトロフィーを頂いた。
新庄が1年目に残した成績がその後、多数の日本人野手に光が当たる一因になったことは疑う余地がないだろう。(元メッツ・スカウト)
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