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【石川】反核 叫ぶ父の船 ビキニ被ばくの第五福竜丸 建造

2020年12月3日 05時00分 (12月3日 09時59分更新)
展示されている第五福竜丸=東京都江東区の都立第五福竜丸展示館で(同館提供)

展示されている第五福竜丸=東京都江東区の都立第五福竜丸展示館で(同館提供)

  • 展示されている第五福竜丸=東京都江東区の都立第五福竜丸展示館で(同館提供)
  • 冊子「第五福竜丸と私の思い出」を手にする東山温美さん=金沢市で
  • 植村直太郎さん=同館提供

金沢の東山さん 冊子製作、記憶継いで

 一九五四年、米国の水爆実験によりビキニ環礁で被ばくした日本の漁船「第五福竜丸」。金沢市泉が丘の東山温美(はるみ)さん(86)が第五福竜丸に関する冊子をまとめた。第五福竜丸は東山さんの父が建造を手掛けた。非核のシンボルとなった経緯も記し「小さな船の大きな反核の叫びを聞かなくてはいけない」。結びには核のない世界への思いをつづった。(高橋雪花)
 大きな水しぶきとともに古座(こざ)川に浮かんだ、すごい!みな歓声と拍手が響きわたる。
 四七年、和歌山県古座町(現串本町)であった進水式を描いた場面。その木造船が数奇な運命をたどろうとは十三歳だった東山さんは夢にも思わなかった。
 第五福竜丸は元々カツオ漁船「第七事代丸(ことしろまる)」として誕生し、戦後の食糧難を支えた。完成させたのは「古座造船所」。東山さんの父、植村直太郎さん=享年五十一=が当時、社長を務め、兄や親戚も船大工として携わった。その後、遠洋漁業用のマグロ漁船に改造され、静岡県焼津市の漁船となり、第五福竜丸に改名。ビキニ環礁で被ばくした。
 「第五福竜丸と私の思い出」と名付けられた冊子はA5判五十四ページ。東山さんは二、三年ほど前、「もう年だから」と船の歴史を残したいと考えた。被ばくから展示されるまでの歩み、題材とした映画などの作品も掲載。本や新聞記事、当時の写真など資料を集めて仕上げた。
 進水式の後に乗せてもらったエピソードもつづった。「乗せてと言ったんだろうね。(船内で)いくつも並んだ真っ黒い機械がうわーっと大きな音で動いていた」と懐かしむ。
 それだけに、被ばくを耳にしたときには驚いた。父は既に亡くなっていた。「あの事代丸が…かわいそうに」。十年前には、第五福竜丸が保存されている東京都江東区の展示館へ。思いがあふれて涙がこぼれた。「第五福竜丸は自分の子のようにいとおしい。一度は廃船になって捨てられかわいそうな目に遭ったが、永住の地を得て平和を問い掛ける船となったことがうれしい」
 冊子は四十部刷り、長男、長女らに配った。冊子を手に改めて思う。「若い人は特に知らないから、記憶を受け継いでほしい」

【メモ】ビキニ事件=1954年3〜5月、米国がマーシャル諸島のビキニ環礁などで6回にわたり水爆実験をし、多くの日本漁船の乗組員や現地住民が被害を受けた事件。操業中だった第五福竜丸には「死の灰」と呼ばれる放射性物質が降り注ぎ、乗組員23人全員が急性放射能症になった。うち1人が半年後に死亡。後の原水爆禁止運動につながった。第五福竜丸の船体は現在、東京都江東区の都立第五福竜丸展示館で公開されている。


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