【わがまちの偉人】金沢 中華の「チュー」創業者 水野 忠(1912〜2004年)

2020年12月3日 05時00分 (12月3日 10時30分更新)
香林坊のチュー本店前で、若い従業員らとつくった野球チームで撮った集合写真。水野忠さんは前列左から3人目=1955年撮影(写真はいずれも浦田外与治さん提供)

香林坊のチュー本店前で、若い従業員らとつくった野球チームで撮った集合写真。水野忠さんは前列左から3人目=1955年撮影(写真はいずれも浦田外与治さん提供)

  • 香林坊のチュー本店前で、若い従業員らとつくった野球チームで撮った集合写真。水野忠さんは前列左から3人目=1955年撮影(写真はいずれも浦田外与治さん提供)
  • 水野 忠
  • 香林坊のチュー本店のメニュー看板(1959年撮影)

笑顔呼ぶ懐かしの味

 「映画見た後はいつもチューのラーメンやったわ」「小遣いためて食べにいくごちそうだった」。その名を口にする金沢の人たちは、きまって懐かしさから笑顔になる。中華の「チュー」。創業者の水野忠は、のれん分けした弟子たちから「親父(おやじ)さん」と慕われ続けた。(辻渕智之)
 香林坊にあった映画館「松竹座」前の作業小屋を借りる形で、のれんが掛けられた。開店したのは終戦から半年後の一九四六年一月。そう伝える「石川県麺業史」は、チューを「金沢で最初の中華そば専門店」と記している。
 水野は親が旅芸人の一座で、子どものころは各地を回ったらしい。中華料理は戦前、武蔵ケ辻にあった三越百貨店の食堂で働いているとき、中国人の料理人から習った。「チュー めいてつ・エムザ店」店主の浦田外与治(とよじ)(82)はそう聞いている。
 屋号の「チュー」は、県商工会議所会頭や国務大臣も務めた林屋亀次郎の妻が名付け親。林屋が社長だった丸越百貨店の地下で水野が食堂を営んでいた縁という。水野は名の「忠」が音読みで「チュウ」だし、ねずみ年生まれだった。
 チューは妻の春子と経営し、中学を卒業したての若者をよく雇った。面倒見が良く、夜十時の閉店後には彼らを毎日、銭湯へ連れて行った。「みんなで一緒に風呂に入る。洗い場では親父さんを一番前にして五、六人が後ろに並んで座り、背中を流した」
 そして親孝行だった。かつての金沢駅。ホームの階段では年老いた母親を気遣い、おんぶして上り下りする姿が浦田の目には焼き付いている。
 いつも野球帽をかぶり、腰には濃紺の前掛け姿。阪神タイガースの熱烈なファンで、野球には熱くなった。巨人ファンの常連客が巨人が勝った日だけ店に来るので、ときに言い合いになった。従業員らでつくった野球チームも率いた。
 本店や支店から若者らが独立し、店はどんどん増えた。「チューのれん会」会長で金石店の初代店主、池尾清(77)によれば、食材の共同仕入れや出資を受けるために別の中華料理店がチューに改称したり、合併したりする例もあった。
 本店は香林坊の再開発事業で近くに移転した。その後、平成のはじめごろ店をたたんだという。そして水野は晩年、高齢者施設に入った。
 「やっぱりラーメンと焼飯(やきめし)。親父さんのは絶品だった」。エムザ店の浦田は振り返る。その味を受け継いでいるという浦田は、豚のすじ肉からスープのだしを取っている。
 水野が施設にいた九十歳前後のころ、昔なじみの税理士、桑島伸司(しんじ)(78)が訪ねた。行事で軽食を作ろうという話になると、水野は片手を動かして中華鍋を振るしぐさを見せた。そして「こつがあるんや。だから、鍋が重たてもできる。わし、やるぞ」と自慢げに笑った。桑島は言う。「ほんと働きもんで。最期まで職人やったと思う」 =敬称略
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 次回は、第三善隣館を創設し、金沢の福祉の礎を築いた荒崎良道(あらさきりょうどう)(一九〇二〜七六年)を紹介します。

【プロフィール】みずの・ただし=1912(明治45)年3月、長野県須坂市生まれ。母親は旧富来町(現志賀町)出身。チューのれん会会長の池尾清によると、チューは各店の独立採算制で、最盛期の70年代に石川、富山県内で45店舗ほどまで広がった。今も営業するのは15店でメニューや味付け、食材は特に統一されていないという。92歳で死去。


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