本心<162>

2020年2月20日 02時00分 (5月27日 03時48分更新)

第八章 新しい友達

「もしご興味を持っていただけるようでしたら、お母様に愛読書を学習していただきたいのです。お好きだった藤原亮治の本とか。あと、今流行(はや)っている本も。読書家の方ほど、話し相手がいなくて、施設で寂しくされていますので、ニーズがあります。」
 僕は同意して、申し込みに必要な手続きの詳細を送ってもらうことにした。パソコンから目を逸(そ)らすと、しばらく窓辺で、何の変哲もない初秋の街並みを眺めていた。
 《縁起》を経験して以来、何を見ても、あの宇宙の光景が脳裡(のうり)をちらついた。僕の見ている少し霞(かすみ)がかった空も、古びた鼠色(ねずみいろ)の瓦屋根も、錆(さび)の目立つ街灯も、幻影と疑われまいと、固唾(かたず)を呑(の)んでじっとしている風情があった。
 ――その夜、僕は生まれて初めて、自分が宇宙にいる夢を見た。
 明らかに、就寝前にまた、《縁起》の世界に浸っていたせいだったが、起きたことは、地球上の夢と同様に、支離滅裂だった。
 僕は、土星の周囲を回るタイタンという衛星の川を、自動操縦の白い探査船に乗って航行していた。
 船の後部は、中華料理屋の外壁に設置された換気口のような形状で、そこから、窒素だか何だかを取り入れては、エネルギーに変えて推進しているのだった。
 水は、銀色の光沢を帯びた、深緑のような、黒のような、複雑に混ざり合った色だった。僕は、それを見ながら、「しかしこれは、水じゃないんだな。……」と考えていた。
 切り立った、優に二〇〇メートルはありそうな、白い氷山のような絶壁が、方々に屹立(きつりつ)していた。シンガポールの植物園にある、巨大な人工樹のようなかたちのものも紛れていた。
 僕は、船の甲板に仰向(あおむ)けに寝て、空を見上げていた。薄暗いが、曇っているわけではない。地球上では決して見たことのない神秘的な色合いで、僕は、土星は太陽から随分と遠いはずなのに、案外、明るいんだなと考えたりしていた。
 小雨が絶え間なく降っていたが、それは、メタンの雨だった。こんなのを浴びて、大丈夫なんだろうか、と僕は思った。先ほどから何滴か、口の中にも入っていた。
(平野啓一郎・作、菅実花・画)
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