「弱者の戦法」で全国席巻 広島商
2018年7月10日 02時00分
守りか、奇襲か、バントの多用か、それとも精神野球か-。「これだ」とひと言では表現できずとも、確かに存在する。それが「広商野球」だ。120年に及ぼうとする同校野球部は2004年を最後に聖地から遠ざかり、今春は不祥事での謹慎も経験した。しかし、「広商」は常に高校野球の中心にあった。同校の選手として、そして監督として夏を制覇した迫田穆成(よしあき、79)=現広島・如水館高監督=の足跡をたどりつつ、日本の高校野球を席巻した広島商の本質に迫る。 (文中敬称略)
弱さを自覚して勝つ
弱いから、勝つ。禅問答のような言葉が浮かぶ。
広島商の選手は甲子園で敗れた際に土を持って帰らない。甲子園は“広商の庭”であり、いつも来る場所、そして、勝つために来る場所だから。
しかし「松山商、高松商に下関商…。(甲子園常連校は)みんなウチより強いと思ってましたよ」と迫田。下関商のユニホーム左胸にある「S」の一文字を見ると「『下商(しもしょう)のSじゃ』って、ドキドキしてました」
迫田穆成「3回泣いた」
プライドと、謙虚さとが同居する。広商野球の本質は、そのあたりにありそうだ。
高校時代、迫田の1学年上は山本一義、上土井勝利(ともに元広島、山本はロッテ監督も経験)ら、後にプロ入りするようなスター選手を擁する強豪だったが、甲子園では1956年春夏とも初戦で敗退した。
そして、迫田が主将となる。最後の甲子園を懸けた57年夏、山口県と広島県のベスト4チームの8校が争う西中国大会。1回戦を勝っただけで「泣いた」というほど弱かった世代は決勝の広陵(広島)戦、3-0から1点差と迫られながら、9回のピンチをしのいで優勝。迫田は「3回泣いて、甲子園です」と述懐する。
選手権。初戦は永井進(元阪急)-戸梶正夫(元阪神)と後にプロへ進むバッテリーを擁する育英(兵庫)を延長で倒し、「また泣いた」という。
学制改革で廃校扱いも
強いと思っていないから、地区大会でも、甲子園の初戦あたりでも勝てば涙が出る。上田松尾(長野)、戸畑(福岡)、法政二(神奈川)と破り、夏4度目の優勝を手にした。
広島県勢としては34年、藤村富美男(元阪神)のいた呉港中(現呉港)以来となる、戦後初優勝。原爆被害からの復興過程にあった町は沸いた。また、広島商自体も49年から5年間、学制改革により廃校扱いとなっていた時期があり、再開2期生となる迫田の代での優勝は、オールドファンを大いに喜ばせた。
どんなピンチも平常心
弱さを自覚することで、どんな練習にも耐える。そして、どんなピンチも平常心で練習通りのプレーをする。この「弱者の戦法」にますます磨きがかかる。一つの完成形が16年後、今度は迫田が監督として臨んだ73年夏の第55回大会だろう。
迫田は67年に監督就任し69年春、70年夏と甲子園出場を果たしたが、いずれも2試合目で敗退。その後2年間、甲子園から遠ざかった。「あの時の校長が『やったらどうか』ってね」。戦前の広島商精神鍛錬の伝説ともなっている、真剣の刃渡りだ。72年、夏の大会1週間前という時期に、一度だけ復活した。
師範の指導の下、まずは2時間の腹式呼吸で気持ちを整える。「私もやりましたが、師範が『そろそろいいでしょう』と言った時の“無になる”という感覚を初めて知りました。2時間が、30分にしか感じないんですよ」という。
飛び入り参加した社会人の指導者は「部屋中の空気を吸い尽くすくらい」派手な腹式呼吸をした揚げ句、集中しきれず刃渡りを断念したとも。それほど極限の精神統一を果たした者が、大刀、小刀の上に乗る。
スクイズでサヨナラ
やり遂げた直後の練習では気が抜けてしまい「普通の飛球も捕れんようになるんですよ」という。そこまで追い込んだナインは翌年春、難攻不落と言われた江川卓(元巨人)の作新学院(栃木)を破って準優勝した。
夏の第55回大会は、静岡との決勝戦、カウント2-2からのサヨナラスクイズという、いまだに語り草となるプレーで頂点を極めた。
この大会で21度と多用したバントは「1度を除いて、すべて2ストライクから」であり、失策は広島大会を通じてもわずか「1」。土壇場でも平常心で臨める、絶対の自信を身につけた技術も“広商”であり、「もちろん、ガッツポーズも胴上げもしません」の振る舞いも“広商”だった。
(西下純)
▼迫田穆成(さこた・よしあき) 1939(昭和14)年7月3日生まれ、広島市出身の79歳。55年広島商入学。57年夏は主将として全国制覇。67年同校監督に就任し、73年春準V、同年夏優勝などの成績を残す。93年に三原工(現如水館)監督となり、現在に至る。同校でも8度の甲子園出場(うち夏7度)を果たし、2011年夏はベスト8に進んだ。
▼広島商 1899年11月、広島商業学校として創立、同時に野球部も創部。1916年夏に選手権初出場を果たして以降、夏6度、春1度の全国優勝を記録。うち母校を4度優勝に導き、後にプロ野球の大阪(現阪神)、広島などの監督を務めた石本秀一をはじめ、鶴岡一人(元南海監督)、大下剛史(元広島コーチ)三村敏之、達川光男(ともに元広島監督)、山本和行(元阪神)、柳田悠岐(ソフトバンク)ら数多くのプロを輩出している。
全国に恐れられた戦法
全国に恐れられ、その後に広がっていった“広商戦法”をいくつか紹介する。
◆ダブルスチール◆
夏連覇を果たした1930年の2回戦。1点を追う9回無死一、二塁で石本監督が敢行し、逆転勝利につなげた。
夏連覇を果たした1930年の2回戦。1点を追う9回無死一、二塁で石本監督が敢行し、逆転勝利につなげた。
◆空振りスクイズ◆
打倒・江川のために行った練習。無死か1死の二、三塁で走者がスタートし、打者が空振りして捕手が三走にタッチする隙に二走が生還する。「バントもできん」(迫田)という江川の剛速球の逆手を取ろうとした。公式戦では使われていない。
◆3バント◆
「そのカウントで決められたら相手バッテリーは嫌」(迫田)。精度を上げるため、練習では右打者は左打席で、左打者は右打席で。他の選手全員が大声でヤジる中、1球だけ、というバント練習を行った。
「そのカウントで決められたら相手バッテリーは嫌」(迫田)。精度を上げるため、練習では右打者は左打席で、左打者は右打席で。他の選手全員が大声でヤジる中、1球だけ、というバント練習を行った。
◆偽投◆
57年西中国大会決勝。ライバルの広陵に3-0から1点差に追い上げられ、9回無死二塁から広陵の打者がセーフティー気味のバントを三塁前へ。ここで三塁手がとっさに一塁へ偽投。三塁をオーバーランした走者を刺し、ピンチを脱した。
57年西中国大会決勝。ライバルの広陵に3-0から1点差に追い上げられ、9回無死二塁から広陵の打者がセーフティー気味のバントを三塁前へ。ここで三塁手がとっさに一塁へ偽投。三塁をオーバーランした走者を刺し、ピンチを脱した。
「最近は甲子園の内野に芝生があるんか?」
「伝説」石本秀一の第一声
広島商最高の伝説といえば石本秀一だろう。母校はもとより、プロでも監督として戦前の野球を大いに盛り上げた。迫田は42歳年下だが、広島商監督時に会っている。グラウンドを訪れた石本の第一声が「最近は甲子園の内野に芝生があるんか?」だったという。迫田は意図をつかみきれず「ないです」と返事。石本は「じゃあ、何でブルペンのマウンドとホームプレートの間に草が生えとるんじゃ!」と一喝。迫田にとって忘れられない、伝統校らしい逸話となっている。
【プラスワン】三村敏之らを育てた名伯楽 畠山圭司
迫田野球の仕掛け人
迫田の時代に成熟を感じさせた変幻自在の広商野球。その影には迫田を監督に招いた前監督で、その後は野球部長を長年務めた畠山圭司(2006年死去)の存在があるという。
畠山の指導下で66年、9年ぶりの甲子園出場を経験したのが三村敏之と同級の永山貞義(69)だ。法大に進学後、地元の中国新聞社に入社。運動部員、運動部長、編集委員などを経て、現在はフリーライターとして活躍している。
「個の否定、全体で勝つ野球をたたき込まれた」と永山。極限での平常心を追求する過程では「先輩、後輩の関係も厳しかった。畠山監督は見て見ぬふり。そこで残るのが、気持ちの強い選手、という考え方でしたよ」と言う。
しかし、ただのスパルタではない。とことん野球を研究する。研究した成果は当然、選手たちに猛練習を通じて伝えられるが、そこにとどまらないところに畠山の価値がある。
毎年2月、「如月会」と称して、日本全国で野球の勉強会を行っていた。70人を超える指導者が、畠山門下生として“広商野球”を受け継いだ。PL学園・鶴岡泰、宇和島東・上甲正典らの名前もあった。広商野球=高校野球。そんな時代が、確かにあった。
(次回は8月24日掲載)
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