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右脚をなくした作詞者が『栄冠は君に輝く』に込めた思い…あの名曲を甲子園で聴けないのはやはり寂しい

2020年5月22日 17時18分

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石川県能美市の根上野球場に建てられている「栄冠は君に輝く」の石碑

石川県能美市の根上野球場に建てられている「栄冠は君に輝く」の石碑

 この夏、甲子園に「栄冠は君に輝く」は流れない。加賀大介作詞、古関裕而作曲、夏の甲子園(全国高等学校野球選手権大会)大会歌は名曲である。「雲はわき 光あふれて…」で始まる歌は、日本の夏の風物詩となっている。私は、若いころの一時期、そして最近のここ十数年、取材のため毎年、甲子園詣でを続け、この歌が頭にこびり付いている。今年の夏が寂しい。
 加賀大介の右脚は、膝から下が無かった。その加賀が、2番の歌詞の冒頭にこう書いた。
 「風を打ち 大地を蹴りて…」
 かなわなくなった大地を蹴る夢を、若者たちに託す、切なくも深い思いがこもる。石川県根上町(現能美市)で育った加賀(本名・中村義雄)は、野球少年だった。1914年の生まれ。まだ日本が貧しく、野球用具も乏しかった少年時代に、手作りのボール、グラブは珍しくなかった。そんな環境でも、加賀は野球を愛していたという。家庭の事情で進学せず、地元で工員をしながら野球を楽しんでいた。だが、悲劇に襲われる。草野球で脚をケガし、それがもとで、右脚の膝から下を切断するに至った。当時、まだ16歳の少年だった。現在なら高校球児と同じ年頃である。
 文才のあった加賀少年は、やがて作家を目指すこととなる。長じて33歳の年、1948年。夏の甲子園を主催する朝日新聞社が、学制が中等学校から高等学校に切り替わるのを機に、大会歌を公募。これに応募し、5000を越える作品の中から採用されたのが「栄冠は君に輝く」だった。
 しかし、長らく作詞者名は加賀道子だった。加賀の当時の婚約者で、後に結婚した道子夫人の名である。大介は「賞金狙い」と言われるのを嫌い、道子さんの名で応募していたのである。それから、20年後の68年、第50回記念大会を機に、夫婦は真相を明かし、以後、作詞者は加賀大介と記されるようになったのだ。
 話は変わるが、これを書いた22日、NHKの朝ドラ「エール」で、窪田正孝演じる古関裕而のモデル、古山祐一が、早大の応援歌「紺碧の空」の作曲を完成させた。国民的名曲を多数世に出した古関だが、中日ドラゴンズの「青雲たかく」、阪神タイガースの「六甲おろし」、巨人軍の歌など、球団歌、応援歌も残る。
 話を戻す。加賀の「栄冠は君に輝く」を手にした古関は、実際に甲子園球場を訪れ、マウンドにたたずみ、名曲を生み出したと言われている。
 加賀は1973年、58歳で没した。その翌年に、同じ根上町で、希代のスラッガー、松井秀喜が産声をあげたのは奇遇としか言いようがない。しかし、なぜか、高校野球を愛した加賀が、一度も甲子園を訪れることがなかったという。
 古関は1989年、80歳で没した。1964年の東京五輪の開会式では古関の名曲「オリンピック・マーチ」が流れた。
 2020年夏。甲子園に「栄冠は君に輝く」が流れない。そして、古関の「オリンピック・マーチ」から56年、再び巡ってきた東京オリンピックも開かれない。
 若者が甲子園で「風を打ち 大地を蹴る」ことのない今年の夏は、やはり寂しい。(満薗文博、スポーツジャーナリスト)

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