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達人が記者に投げかけた魔法の言葉たち

2019年5月2日 12時06分

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 私の猪熊さんへのインタビューは「無制限1本勝負」の様相を呈していた。八匠館を訪れたのは、昼前。時計の針は午後4時を過ぎていた。私は出されたそばをおかわりし、のどがカラカラに渇いたので、自ら差し入れたペットボトルのお茶を「飲んでいいですか?」と遠慮なくいただいた。そして、改めて目の前の涼しげな達人を見て、思いのままを言った。
 先生は武道家であると同時に、哲学者のような感じもします。
「それは、分からんが、哲学書とか宗教の本とかいっぱい読んだな。小学校しか出とらんが、雑学が生きるんや。この部屋にいくつか天井を支えている鉄柱があるでしょ。2階に何十年も積み上げた本の重さで天井がミシミシ音を立てて落ちそうになったから補強したんだ。ある日、もう、要らないからと、ゴミ回収屋さんに頼んだ。軽4トラック2台分あった。ゴミ屋さんもバカ正直で古本屋に持ってったら76万円で売れたと、お金を持ってきた。そんなもん要らんから、おんぼろの車を買い替えなさいと。すると、66万円で中古車を買いましたと、残りの10万円を持ってきた。いやいや、そんなもん要らんから、焼酎でエエと言ったら、焼酎瓶10本持ってきた。古本が焼酎10本に化けたというか、それだけの本を読んでできたのが、今の自分ということかもな」
 なるほど。ところで、聞き忘れましたが、99歳ということですが、念のため、生年月日を
「戸籍上は大正15年2月です」
というと、えー(スマホで検索する記者)、93歳になりますが、これは?
「もろもろの事情で出生届を出すのが、だいぶ遅れたそうなんだ。大正14年に亡くなった祖父の葬儀のことを鮮明に覚えてるしな」
 鮮明な記憶があるということは、少なくとも、その時点で1、2歳ではない。3歳か4歳か
「そうだね。親はワシがショックを受けると思ったらしく教えてくれなかったが、叔父によると、相当、遅かったと。九州の炭坑から母と帰ってきたのが、ワシが4、5歳。たぶん、届け出はその後かと」
 となると、第1次世界大戦後の大正9年なら99歳、大正10年なら98歳。さまざまな状況から推測すれば、そんなところでしょうか?今となっては、神のみぞ知る世界。いずれにせよ、我々が想像できない時代背景もあったんですね。ところで、ご家族は?
「カミさんはガンで亡くなりました。口数が少なく、働き者で不思議な子でした。子供も2人おりましたが、2人とも幼くして亡くなりました。2人目が亡くなった時は、それはもう、つろうてつろうて、ワシも…」
 と、ここまで、猪熊さんが言いかけたところで、私は「お子さんは病気で?」とつい口を挟んでしまった。子供は病死ということだったが、猪熊さんの言いかけたことは聞けずじまいだった。たぶん、「ワシも死のうと思った」と続いたと思う。ひょうひょうとした猪熊さんも幾度と深い悲しみと絶望を乗りこえてここにいるのだった。
 道場開設70年。これまでの生徒は1万人を超える。高松だけではなく、日本各地、海外からもやってくる。女性からの人気も絶大だ。バレンタインチョコは150個届いた。「先生、大、大、大好き」と書かれた手紙や、「先生、また、会いたいです。会えなければ、来世で」と日本語と英語で書かれたイタリア人女性からの熱い手紙もあった。「先生に会うと、ホッとする」と老若男女問わず言うらしいが、強さと同時に癒やしや憩いを求めてやってくるのだろう。
 先生、これだけの生徒に慕われると、寂しくないですね?
「そんなことはない。なんぼ、人が寄ってきても人は孤独。人生は孤独との闘い。いや、闘いじゃない。人生は、孤独そのものだよ。人生は自分探しの独り旅なんだよ。そして、生きるヒントはなにげない日常にこそあるんだよ」
 勉強になりました!
「勉強になったからどうかわからんが、これも縁。しかし、君は不思議な男だねえ。最初、電話で話した瞬間からそうだったけど、なんか、人をほっとさせるね。安心感を与えるね。話すのは、この前の電話に続いて2度目だけど、失礼ながら、ワシはここまで、気安く話さん。実に人間性豊か、人間性がいっぱい詰まっている。どうやったら、こういう人間になるのか? 女で苦労したか? おまけに、チャランポランでいいかげんなところが実にいい!」
 思えば、久しく、誰からも褒められていない。チャランポランと言われても妙にうれしかった。それは、魔法のような言葉たちだった。夕方の5時になろうとしていた。道場の空気もヒンヤリとしていた。私は心地よい疲労感とささやかな幸福感を味わいながら八匠館を後にした。
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