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ジャニーさんのかなわなかった夢「全米1位」

2019年7月26日 18時00分

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米国でリリースされたジャニーズの「ナッシング・セイクレッド」のオリジナル盤レコード。これはプロモーション用の白色ラベルで、通常盤はオレンジ色ラベル

米国でリリースされたジャニーズの「ナッシング・セイクレッド」のオリジナル盤レコード。これはプロモーション用の白色ラベルで、通常盤はオレンジ色ラベル

  • 米国でリリースされたジャニーズの「ナッシング・セイクレッド」のオリジナル盤レコード。これはプロモーション用の白色ラベルで、通常盤はオレンジ色ラベル
  • 【左】ジャニーズの「ナッシング・セイクレッド」が収録されたコンピレーションCDのジャケット【右】CDの解説文に、日本のグループという説明はない
 ジャニーさんのかなわなかった夢が詰まっている、幻の音源がある。
 1966年にジャニーズ事務所の第1号グループ「ジャニーズ」がロサンゼルスで録音し、お蔵入りとなった「ネバー・マイ・ラブ(邦題:かなわぬ恋)」。翌年に6人組グループ「アソシエーション」が歌うと全米ヒットチャートを急上昇。「ビルボード」で2位、「キャッシュボックス」では1位になった。連載「ジャニー列伝」第2回で紹介されたエピソードだ。
 そのお蔵入りした音源を、ジャニー喜多川社長は大切に保管していた。ある取材の時、担当記者に聴かせてくれた。歌声は伸びやかで、特訓を積んだという英語の発音も完璧。西海岸の一流ミュージシャンを集めた演奏がカッチリとはまり、アソシエーション版に引けをとらない出来だった。
 「今でももったいないと思っている。アメリカで1位をとることは不可能じゃない。カメラも自動車もアメリカに勝って1位になった。なんで芸能界だけが1位になれないの? 日本の力はあるんです」。いつもの柔和な表情だが、口調には強い力がみなぎっていた。
 だがジャニーズの挑戦と高い音楽的クオリティーは、当時の日本では評価されなかった。むしろ非難された。67年1月、羽田空港で帰国会見を開き、自信満々で録音した3曲を流したが…。「『平凡』の記者が『ジャニー、やばいよ。おれたちはテープを聴きに来たんじゃない』って。メディアは怒って帰ってしまいました」
 苦い経験。でも手応えは確かだった。70年代にフォーリーブス、80年代には少年隊が米国進出を試みたが、ジャニーズの時ほど「頂点まであと一歩」を実感したことはなかったという。
     ◇
 ジャニーズはアルバム用に16曲を録音したが、すべてお蔵入りしたわけではない。67年7月に「ナッシング・セイクレッド」がひっそりと、シングルとして米国のワーナー・ブラザース・レコードからリリースされている。
 B面は「アイ・リメンバー」。シングルといってもジャケットはつかず、ドーナツ盤のレコードだけ。アーティスト名表記は「THE JOHNNYS」。残念ながらヒットはしなかった。
 だが話はそこで終わらない。2009年ごろ、米国のソフトロックやサイケデリックロックの貴重音源を集めた人気コンピレーションCDのシリーズ第5弾に「ナッシング・セイクレッド」が収録されたのだ。英語の解説文には「驚くべきフォークロックナンバー」とあり、日本という記述はない。発音がいいので米国のグループだと思われたのだろう。偏見なしに、音楽性が正当に評価された証しといえる。
 ちょうど初代ジャニーズからの歴史を舞台化した「ジャニーズ伝説」の制作中だった2013年9月に、このことをジャニーさんに伝え、入手したCDとオリジナル盤のレコードをプレゼントした。ジャニーさんは「ええっ、そうなんですか!?」と声を上ずらせて驚き、喜んでくれた。
     ◇
 ジャニーズは再渡米を望んでいたが、日本での芸能活動が多忙となり流れた。そして自分たちの曲だった「ネバー・マイ・ラブ」がアソシエーションによって全米1位になったことを知る。つかみかけた夢は、運命のいたずらで手からすべり落ちた。「アメリカで精いっぱいやった。これ以上のことはできない。あきらめちゃったわけです。ジャニーズには『解散したら?』って、平気で言ったもん」。失意の中で、ジャニーさんは新たな目標を抱いたという。「やるなら日本でがっちりやっていこう。アメリカに負けないようなミュージカルをやろう、と思ったんです」
 その言葉通り、斬新なアイデアと演出を詰め込んだ舞台を次々に手掛けた。音楽でもヒットチャートを独走し「王国」と呼ばれるまでになった。それでも、一度ついた火は消えることなく、胸の奥でくすぶり続けていたのだと思う。
 2010年、小さな種火が炎となる。KAT-TUNを脱退した赤西仁が、ソロで全米デビューすることが決まった。しかも何の因果か、ジャニーズが米国でかかわったワーナーから。
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 12月に都内で大々的な会見が開かれた後、ジャニーさんは担当記者の取材に応じた。「ぜひワーナーさんにお願いしたい。昔の夢を実現するという…いや、あれは夢ではなかった。もともとジャニーズのものだった曲が、いきなり1位になったんだから」。口調はどんどん熱を帯びていく。「日本人っぽい英語の発音ではよくない。どうしても『日本語的』な曲になる。まず100%、いや150%、アメリカ人が聴いて『日本人じゃない』と思うくらいじゃないと。まず英語の曲をバチッと出す。そうしないとワーナーで出す意味はないから」
 赤西は独学で英語を話せるようになっていた。それがジャニーさんを喜ばせた。「英語が話せないとダメなんです。彼もマスターしてきた。みんなそういうふうにやってほしい」。63年に全米1位となった坂本九さんの「スキヤキ(上を向いて歩こう)」とは違う、英語詩での勝負。ジャニーズの時と同じだ。
 しかし2011年にリリースされた赤西の全米デビューシングルは、マイナーなiTunesダンスチャートで1位になったものの、ビルボードでは圏外に終わった。その後の作品も同様だった。
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 舞台「ジャニーズ伝説」が初日を迎える直前、こう語った。「『ジャニーズ伝説』は、僕が死んでからも続くでしょう」。ジャニーさんは、夢の行く先を見届けられないことを覚悟していた。そして米国挑戦の歴史を作品として残すことで、かなわぬ夢を“子どもたち”に託したのではないだろうか。
 「夢はかなう、実現するものだっていうことです。絶対に夢物語で終わらせずに、やらなきゃいけない」。赤西の全米デビューに際して、ジャニーさんが語った言葉だ。少年時代にエンターテインメントの魅力を知った原点の地、米国でトップに立つこと。将来、ジャニーズ事務所から「全米1位」のヒット曲が誕生したとき、ジャニーさんの夢は完結するのかもしれない。 (石井知明)

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