米津台場 黒船を撃つ砲台、1856年浜松藩が築く

2020年10月10日 05時00分 (10月10日 05時00分更新)
3基のうち1基残っている米津台場跡

3基のうち1基残っている米津台場跡

  • 3基のうち1基残っている米津台場跡
  • 新津小学校に保管されている砲弾
 江戸時代の日本は、鎖国をして外国との交流を制限していました。
 江戸時代の終わりごろになると、日本の周りの海に、国を開くように求めて外国の船がたびたび来るようになりました。浜松の南の遠州灘にも、1846(弘化3)年にアメリカの軍艦2隻が現れ、浜松藩が警備に出兵した記録が残っています。
 江戸幕府は、国を守るため、日本各地の海岸に外国船を打ち払う砲台、台場を築くように指示しました。
 浜松では、浜松藩が56(安政3)年、米津浜(今の浜松市南区新橋町の辺り)の砂浜に面した自然堤防の上に、台場を3基築きました。それぞれの台場は、東西およそ750メートルの中に高さがおよそ27メートル、周囲72メートルの丘のような形をしていました。
 台場の海に面した前面の部分は石を積み上げて角張らせ、後方は円形をしていました。丘の上に大砲を載せ、下には穴蔵を造って火薬や砲弾などを蓄える仕組みになっていました。大砲は、砲身の長さがおよそ5・5メートル、重さが2トン、人の頭ほどの口径がありました。砲弾は鉄の物もありましたが、ほとんどは花こう岩でできていました。

◆発射練習 海に届かず

 こうして出来上がった米津台場ですが、実際にはあまり役に立たなかったようです。台場を築く工事に参加した人の話を紹介します。
 「台場の大砲を撃つ練習の時には、大きなほら貝を吹いて合図をします。発射する役人が火縄で火をつけると、大砲の周りにいる人はみんな急いで逃げました。砲弾は何とも言えない恐ろしい音と地響きをさせながら飛び出しました。お台場の近くの家の棚に載せてあった鍋や釜が転げ落ちたほどです。役人から『今日は大砲を放つから棚の上の割れ物は下ろすように』というお触れが出ました。お台場ができてから、大砲を撃つ練習を何度もしましたが、黒船を沈めるどころか、波打ち際まで届くのも難しいありさまでした」
 3基の台場のうち、真ん中の1基の土台が、今でも米津浜の自然堤防に残り、浜松市指定史跡になっています。また、台場で使った砲弾が、新津小学校(浜松市南区新橋町)に保管されています。重さ10キロ、直径19センチのとても大きな球形をしています。

<もっと知りたい人へ>
見学場所:米津台場跡 浜松市南区新橋町2011―6
参考文献:「わが町文化誌 潮かおる浜の里」浜松市立新津公民館わが町文化誌編集委員会

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