本文へ移動

姜徳相 滋賀県立大名誉教授・歴史学者 

2020年9月25日 16時00分 (6月14日 16時10分更新)

写真・淡路久喜

朝鮮観にゆがみ 戒厳令下の虐殺

 関東大震災後の朝鮮人虐殺に関する研究の先駆者として、軍隊や警察も加担した虐殺の実態を明らかにしてきた姜徳相(カンドクサン)・滋賀県立大名誉教授(88)。一九七五年に出版の著書「関東大震災」(中公新書)は九七年に絶版となったが今月、新幹社(東京)から復刊された。虐殺の犠牲者追悼式に小池百合子東京都知事が四年連続で追悼文を送らないなど、歴史的事実を否定するような昨今の風潮をどう見るのか、思いを聞いた。 (森田真奈子)
 -朝鮮人虐殺に関する研究を始めたきっかけは。
 一九六〇年ごろ、国会図書館で司書の方から「連合国軍総司令部(GHQ)に押収されて戻ってきた返還文書がある」と聞き、関東大震災時の海軍の動きを記録した「公文備考」を見つけた。調べてみると、震災直後に内務省警保局長が「震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し、不逞(ふてい)の目的を遂行せんとし、現に東京市内に於(お)いて爆弾を所持し、石油を注ぎて放火するものあり」との電報を各地方長官に送っており、デマの拡散に当局が加担していたことが分かった。その後、神田の古本屋で地震の見聞録を集める中で「朝鮮人を竹やりや日本刀で殺した」「『朝鮮人は殺してもいい』と警官から聞いた」などの証言が次々に出てきた。
 -当時は朝鮮人虐殺に関する研究は進んでいなかったのですか。
 震災後の虐殺について、戦前は完全に口止めされていて、戦後になって、軍による社会主義者、無政府主義者の虐殺は研究が進んだ。一方で、朝鮮人についてはほとんど研究がされず、社会主義、無政府主義者の殺害と合わせて「三大テロ事件」の一つとされてきた。私は「十数人が殺された事件と、何千人も犠牲になった朝鮮人虐殺は違う。量の違いは、質の違いだ」と批判した。震災四十年の六三年ごろに、朝鮮大学校が証言集を出すなど、研究が増えてきた。
 -七五年の著書「関東大震災」では、虐殺における軍や警察の責任を強調していますね。
 当時から「朝鮮人が襲撃する」などのデマがなぜ発生したのか、論争があった。「日本人の朝鮮蔑視の意識からデマが自然発生した」との主張もあったが、私は「戒厳令下の虐殺」という点を重視した。震災翌日の九月二日に戒厳令が出され、軍隊が町中に出動して見張っている。そこで一般の人が差別心を持って人殺しをしていれば、軍隊が制止するはず。ところが一緒になって殺していた。軍や警察が朝鮮人を敵視していたのは明らかで、民衆は「官製デマ」に踊らされて虐殺に及んだ。
 -「官製デマ」ですか。
 日本の朝鮮支配が、喜ばれているわけではなく、強権で抵抗を抑えていたことを誰よりもよく知っていたのが日本政府や軍、警察当局。一九年には朝鮮半島で三・一独立運動があり、二〇年にも中国の間島地方(現吉林省)で朝鮮民族独立運動が起こり、日本軍が何千人も虐殺している。震災当時の内務大臣、警視総監、東京府知事はいずれも、三・一運動前後に、朝鮮総督府で要職に就いていた人物で、震災のように日本の権力が停止した時に「朝鮮人は何をするか分からない」という先入観があった。日本の民衆も、政府が宣伝した朝鮮観をそのまま受け入れた。
 -三二年に朝鮮で生まれ、二歳で来日。朝鮮人への視線はどのようなものでしたか。
 親が廃品回収業をやっており、東京都渋谷区の広尾で育った。学校では勉強が得意だったのでいじめられることはなかったが、「朝鮮人であることを隠そう」と必死だった。キムチなどが入っている母親の料理を周りに見られるのが嫌で、学校に弁当を持って行かなかったし、母や祖母と家の外で会ったら、友達に見られるのが恥ずかしくて逃げ回っていた。
 -日本人として見られたかったのですか。
 小学三年の二学期の初め、担任の先生がクラスの皆に「今日から姜君の名字は『神農』に変わった」と紹介した。下の名前は「徳相」のままだったが、自分で日本名にしたいと思い、中学からは「智(さとし)」と名乗った。日本の兵隊になり、天皇に一歩でも近づきたいというのが当時の気持ち。中学二年で戦争が終わらなければ陸軍の学校に入るつもりだった。「朝鮮人への差別がおかしい」と思うようになったのはずっと後。大学まで神農と名乗り続けた。
 -朝鮮や朝鮮史に関わるようになったきっかけは。
 早稲田大では中国史を勉強するサークルに入り、そのつながりで(社会運動史などの研究者)山辺健太郎さんに出会い「朝鮮人なのだから、朝鮮史をやったら」と言われ、「それはそうだ」と感じた。卒業を控えて、朝鮮人では就職もできないし、隠したままでは結婚できないなど現実問題にも直面し、本名を名乗るようになった。それから「朝鮮人であるのは別に恥ずかしいことでも何でもないんだ」と自己を取り戻した。
 -朝鮮人学徒兵や独立運動家についても研究していますね。
 日本の学徒兵についてたくさんの本があるのに、五千人ほどいた朝鮮人学徒兵の話が出てこない。軍人軍属はもっと多く(二十万人以上)いて、日本人が玉砕した太平洋の島で、飛行場や防空壕(ごう)づくりをした。三・一独立運動も日本の領土内で起こったことなのに、日本の研究者はあまり研究しない。明治から百五十年の歴史を見ると、一貫して周囲の国を下に見て日本人の誇りが生まれている。「明治の栄光」なんて平気でいうが、朝鮮侵略によって得た栄光じゃないですか。朝鮮蔑視、支配、分断から利益を得てきた歴史を真っすぐ見てほしい。
 -最近では逆に、戦前の歴史を肯定する風潮が強まり、関東大震災の朝鮮人虐殺を「なかった」と主張する本まで出ています。
 朝鮮人虐殺は日本政府も(二〇〇八年の中央防災会議の)報告書で認めている。あったことを「なかった」などというのは愛国主義ではない。虐殺された人数を問題にする人もいるが、二千人か六千人かが問題ではなく、「朝鮮人なら殺してもいい」という時代があったことが問題だ。東京都の追悼文の問題でも、民衆がもっと敏感になるべきだ。
 -著書では、虐殺の実態を明らかにすることで、デマのぬれぎぬを着せられた朝鮮人の「名誉回復」をしたいと書いていますね。
 今でも日本では「朝鮮人はずるい」「うそをつく」とか色眼鏡で見る人がいる。「そうじゃないよ、普通の人間だよ」と分かってほしい。震災当時、放火や投毒などを朝鮮人がするわけもないし、する時間もない。それを政府、民衆までもが信じたところに日本の朝鮮観のゆがみがある。
 -その「ゆがみ」は今も続いていますか。
 若い人が韓国の文化を理解しようとするなど、昔とは違う要素も見えてきていると思う。ただ、日本の伝統的な「朝鮮嫌い」も続いている。拉致問題が話題になったころ、私は拉致に何も関係がないのに、地元の印刷屋さんで「黙れ朝鮮人野郎」と言われたり、家の玄関前にゴミやネズミの死骸を何度も置かれたりした。次に東京で震災が起これば、デマを流す人は必ず出てくる。民衆が再びデマに踊らされないよう、なぜ虐殺が起こったか事実をきちんと認め、今の世で再び繰り返さないように生かしてほしい。

 カン・ドクサン 1932年、現在の韓国・慶尚南道に生まれ、2歳で日本に渡る。55年、早稲田大第一文学部卒業。89年に在日韓国人初めての国立大教授として一橋大教授に着任した。95年、滋賀県立大教授となり、2002年から同大名誉教授。主な著書に「現代史資料6 関東大震災と朝鮮人」(みすず書房、共編著)「朝鮮人学徒出陣−もう一つのわだつみのこえ」(岩波書店)などがある。韓国で日本の植民地支配に協力した「親日派」とされてきた独立運動家・呂運亨が果たした役割を再評価した著書「呂運亨評伝」(新幹社)が高く評価され、20年8月、韓国独立記念館の学術賞を受賞した。

あなたに伝えたい

 朝鮮人虐殺は日本政府も(二〇〇八年の中央防災会議の)報告書で認めている。あったことを「なかった」などというのは愛国主義ではない。

インタビューを終えて

 内閣府中央防災会議(二〇〇八年)の報告書は、震災の死者約十万人のうち1〜数%にあたる千〜数千人が虐殺により犠牲になったと認定。にもかかわらず、政府はその後、虐殺について「事実関係を把握できる記録が見当たらない」との答弁書を出している。「朝鮮人は、放火や投毒などの汚名を着せられたまま。名誉を回復したい」との姜名誉教授の訴えが切実に聞こえる。
 姜名誉教授は、当時の民衆が「官製デマに踊らされた」と指摘するが、近年でも朝鮮学校だけを補助金対象から外し、差別の雰囲気を助長する「官製ヘイト」が問題となっている。歴史的、政治的につくられた差別観に私たちが踊らされていないか、もっと敏感になるべきだと思う。

関連キーワード

おすすめ情報