【わがまちの偉人】金沢「北陸婦人問題研究所」設立 梶井 幸代(1910〜2012年)

2020年9月17日 05時00分 (9月17日 05時03分更新)
梶井 幸代

梶井 幸代

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  • 梶井について「先生はいつも鮮やかな色の洋服を着て、イヤリングを着けていた。そんな姿も憧れでした」と語る谷口妙子(前列右)=金沢市三社町で

石川の女性史 編さん


 主婦の悩みは、尽きなかった。「薬や小遣いは実家でもらう」「女郎(めろう)のくせにと言われる」−。男尊女卑の思想が色濃く残る昭和前期、結婚を機に東京から能登に来た梶井幸代が、県内各地の女性を訪ねて拾い集めた声だ。「石川の『負の歴史』を書き残さねば」。主婦とともに、十一年かけて、県の女性史をまとめ上げた。 (寺田結)
 大阪市出身で、貿易商の父を持つ長女。東京女子大などで国文学を学び、同大の教授になった。「一生研究をしたい」と思っていたが、結婚のため五年で離職。夫の地元・金丸村(現中能登町)に移った。
 主婦になり、毎日井戸で水をくむ生活が始まった。客の接待や子育てに追われて、くたくたに。川で一緒におむつを洗っていた近所の主婦からは「自分の洗濯物は、里に帰ったときに洗っている」と聞かされた。
 「北陸の婦人は、温順で辛抱強いがゆえに、人権を失っている。もっと、理想の生き方を求めるべき」。県教委の社会教育主事になり、県内全市町村を回って女性の悩みを聞きながら目標を立てた。それは、女性目線で県の歴史を捉える「女性史」を書くことだった。
 金沢女子短大の教授を経て、定年後に主婦向けの学問所「北陸婦人問題研究所」を設立。一九八八年、県各種女性団体連絡協議会の会長になると、会員の主婦らに女性史の編集の協力を呼び掛けた。「奥さんでなく、名前で呼ばれる活動をしよう」。元編集委員の谷口妙子(78)は、この言葉が忘れられない。
 委員らは家事の空き時間に家を抜け出し、図書館で新聞のマイクロフィルムを読み続けた。加賀から能登まで、約四十人の女性を取材。初めて女性が投票した選挙など、歴史的な出来事に加え、「内灘闘争のデモの中で流産した母親がいた」「金や息抜きを求めて出稼ぎに行った」など、生々しい経験談も収録。「石川の女性史」は計二冊、約九百ページにまとめられた。
 なぜ「女性史」が必要だったのか。梶井は、女性が歴史を学び、自分が置かれた立場を知ることで、女性が自立に向けた目標を見つけられると信じていた。編集委員は、後書きで「虐げられてものを言えなかった女性の声を、次世代に受け継ぐことに意味があるのだろう」とつづった。
 梶井が育てた女性たちは、今も月に一度、金沢市内で集う。そこは女性が本音で語り合える場になっている。 =敬称略
 ◇ 
 次回は、金沢市押野校下から西南部校下が独立した際に尽力した同校下町会連合会の初代会長、西村圭市(一九二八〜二〇一八年)を紹介します。

 かじい・ゆきよ 婦人参政権運動を主導した市川房枝参院議員を尊敬し、訃報を聞いて「遺志を受け継ごう」と決意。金沢女子短大(現金沢学院短大)にあった自分の研究室を学外に移した「北陸婦人問題研究所」で、主婦向けの古典や環境問題、高齢者問題の講座を展開。2001年に石川文化事業財団の「山本有三記念 郷土文化賞」を受賞した。能の研究でも1985年、県地域文化活動奨励賞を受けた。著書に「女は三度の老いを見る」「金沢の能楽」など。102歳で死去。


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