77歳の今もハンパない練習量…キックボクシングで一世風靡した小さな巨人・大沢昇先輩に会ってきた【山崎照朝コラム】

2020年9月16日 16時51分

このエントリーをはてなブックマークに追加
今も変わらぬ稽古の虫だった藤平昭雄

今も変わらぬ稽古の虫だった藤平昭雄

  • 今も変わらぬ稽古の虫だった藤平昭雄
 1960年代、日本の格闘技界にキックボクシングの一代ブームが巻き起こった。その先駆者となったのは64年1月にタイに乗り込んで国技のムエタイに挑んだ極真勢である。黒崎健時を筆頭に中村忠、藤平昭雄(後の大沢昇)の3人。このうち中村と藤平が勝ち、2勝1敗で凱旋(がいせん)帰国した。
 その後、日本ではムエタイのルールに新たな技を加えたキックボクシングが普及した。藤平は国内で注目が増す中、キックボクシングに転向。68年に大沢昇のリングネームでプロデビューした。
 掲げた目標は“打倒ムエタイ”。不屈の闘争心と強打を武器に本場のタイにも遠征した。ムエタイ王者に挑戦して敗れはしたものの、王者の強烈なヒザ蹴りにも屈することなく応戦したすさまじい戦いに、タイのファンは“小さな巨人”の愛称をつけて健闘をたたえた。
 藤平先輩の5歳下になる私が極真に入門したのは、タイ遠征した年の夏で、高校2年だった。地下でサンドバッグを蹴る藤平先輩をよく見かけた。先輩はまだムエタイとの対決に納得が行かなかったのだろう。「ムエタイはこうやって蹴るんだよな」とブツブツ言いながら蹴っていたのを思い出す。
 先輩は58年に極真空手の前身である大山道場に入門。私が入門した頃は本部指導のほかに黒崎師範の成増道場で師範も務めていた。練習量では誰もが知る猛者で、私も誘われて成増道場によく出稽古に行った。とにかく稽古の虫で、それにまつわるエピソードはいっぱいある。
 「道場は24時間開いている」が口癖だった大山館長が、「藤平のヤツは夜中でも稽古しているんだ。近所から苦情が来てね」と道場生にうれしそうに話すのを覚えている。「いいんだよ。謝るのは私がいくらでも謝るから。好きなだけ稽古はやったらいいよ」と言った。先輩には何のおとがめもなかったのは言うまでもない。
 当時は4階が館長の自宅。夜中にサンドバッグを唸りながら蹴る音が館長の部屋に届かないはずがない。しかも当時、先輩は道場に寝袋を持って寝泊まりしていた。地下室に電気釜を持ち込んでいて、おかずもなくご飯にしょうゆをぶっかけ「おいしい、おいしい」とほお張っていた。
 そんな格闘技界のレジェンドも今は77歳。30歳の誕生日を機に引退し、料理人に転向して「大沢食堂」を経営してきた。今はそれも引退して息子に店を譲っている。先日、顔が見たくなって久しぶりにうかがった。
 現役時代は空手稽古の合間にヨネクラジムでボクシングを習い、プロで11戦10勝1敗。キックボクシングでも67戦56勝(50KO)3敗。かつての練習の虫は今も同じだった。毎日早朝の4時に起床し、12キロのランニングを欠かさない。風呂場でスクワット、腕立て伏せ各500回。他に5本指から1本指まで各腕立て伏せ100回…。私も今も稽古を続けているが、聞いているだけで嫌になりそうな量だった。
 現役時代のけがの後遺症とかないのだろうか。聞くとこう言われた。
 「何で? 膝? 何ともないよ。もう習慣だから。やらないとかえって体調がおかしくなるんだよ」
 かつての“小さな巨人”は今も年を感じさせない怪物だった。
(格闘技評論家=第1回世界オープントーナメント全日本空手道選手権王者)

関連キーワード

PR情報

購読試読のご案内

プロ野球はもとより、メジャーリーグ、サッカー、格闘技のほかF1をはじめとするモータースポーツ情報がとくに充実。
芸能情報や社会面ニュースにも定評あり。

中スポ
東京中日スポーツ