【わがまちの偉人】金沢出身の歌人、歌会始の召人 長沢美津(1905~2005年)

2020年9月3日 05時00分 (9月3日 10時36分更新)
合同歌集「おだまき」の35周年記念号を手にほほえむ宇波照子=金沢市の自宅で

合同歌集「おだまき」の35周年記念号を手にほほえむ宇波照子=金沢市の自宅で

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  • 長沢 美津

女性目線 歌壇に一石


 宮中の歌会始で、戦後初めて女性として、天皇陛下が特別に招待する「召人(めしうど)」になった歌人の長沢美津(金沢市出身)。その歌の流れをくむ金沢の短歌会「おだまき会」がことし、創立三十五年記念の合同歌集を刊行した。<さす指の先をどこまでのばすなら心しづまるところにとどく>。そんな代表歌で知られ、戦後の歌壇をリードした長沢のこころは、今も故郷・金沢で受け継がれている。 (小佐野慧太)
 「九十九歳の生涯を和服で通された、明治の女性でした」。おだまき会代表の宇波照子(85)は、在りし日の長沢の姿を振り返った。お酒が大好きで、晩年まで毎日一合を飲んだという。「あんたは本当にいい子だけど、お酒を飲めないのがダメね」。そんな言葉をかけられたこともある。
 長沢は県立金沢第一高等女学校(現金沢二水高校)に入学し、女子教育の一環で短歌と出合った。卒業後は東京・目白の日本女子大に入学。歌人の古泉千樫に師事した。
 一九四九年には、歌誌「女人短歌」の創刊に携わった。創刊号では、当時の男性中心の歌壇に対抗して、「短歌創作の中に人間性を探究し、女性の自由と、文化を確立しよう」と宣言した。長沢は学者としての一面も持ち、万葉集以降の女性歌人の歌を集成した「女人和歌大系」全六巻を編み、七九年に現代短歌大賞を受賞している。
 東京で家庭を持ったが、故郷の金沢を愛し、足しげく通った。八四年には長沢の提案で「女人短歌」の北陸支部として「おだまき会」が発足。宇波の母の自宅で月一回の歌会を開き、長沢は熱心に歌を添削した。
 宇波は、母が短歌を趣味としていた影響で、五十歳から始めた。歌会の席上で批評を求められ、初めてのことで意見がまとまらなかったとき、長沢から「意見がないというのも一つの意見です」と助け舟を出されたのが思い出に残る。「目に映るものへの愛、大自然への畏敬の念、あるがままを受け入れる信念の確かさ−。何といっても心の在り方を学びました」
 おだまき会は昨年、三十五周年を迎え、今年四月に合同歌集「おだまき」の記念号を刊行した。宇波は巻頭のあいさつで「四十周年、さらに四十五周年に向けて、実のある日日をと会員一同が心を一つにして居ります」とつづり、兼六園を詠んだ長沢の歌を紹介した。
 <いつにても雪こそ来たれ枝々はつなぎ結ばれ冬の構えす>
 「会が存続してきた最大の力は、先生の郷土愛に尽きます。金沢への愛情があふれるふるさとの歌を引いて、会との絆を再確認したかった」。長沢が亡くなって、今年で十五年。「これからも先生を目標に、少しでも近づいていきたい」=敬称略
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 次回は、長年、羽咋郡市交通勧告隊長を務めた羽咋市の湯尾吉一(ゆおよしかず)(一九二六〜二〇一九年)を紹介します。

【プロフィール】ながさわ・みつ=1905年、金沢市宗叔町(そうしゅくちょう・現芳斉)生まれ。29年、第1歌集「氾青(はんじょう)」を刊行。生涯に計24冊の歌集を送り出した。49年、女人短歌会結成に参加し、後に「女人短歌」編集代表人を務める。92年には、女性として戦後初めて、宮中の歌会始に召人として招かれた。2005年、99歳で死去。


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