山葉寅楠 世界のヤマハ、礎を築く

2020年8月27日 05時00分 (8月27日 05時00分更新)
 山葉寅楠(1851~1916年)は、和歌山県に生まれました。
 子どもの頃から器械いじりが好きで、手先がとても器用でした。
 明治時代に入ると、寅楠は当時の日本に出回り始めた時計に関心を持ち、九州の長崎に行って修業に励みました。その後、大阪の医療器械の会社で修理工として勤めました。

◆オルガン手始め 国産初のピアノ

 1887(明治20)年、医療器械の修理のため浜松に来ていた寅楠は、浜松尋常小学校(今の浜松中部学園)のオルガンの修理を頼まれました。このオルガンはアメリカから輸入されたとても高価な物で、当時の日本ではほとんど作られていませんでした。
 初めてオルガンを見た寅楠は「このオルガンと同じ物でよければ、自分なら10分の1の費用で作ることができそうだ。国産のオルガンができれば国のためにもなる。ぜひ自分の手で作りたい。修理は必ずするので、しばらく私のわがままに任せてほしい」と話し、オルガンを分解しながら図面を描き始めました。
 修理の後、2カ月かけて試作品を作り上げると、東京の音楽取調所(今の東京芸術大学)の所長に見てもらいました。すると、残念なことに調律ができていないために使えないことが分かりました。
 そこで、寅楠は音楽学校で調律を学び、オルガンを作り直しました。こうして出来上がったオルガンは「輸入品と同じくらい素晴らしい」といわれるほど、立派な物でした。
 このことをきっかけにオルガンの製作を始めた寅楠は、97(明治30)年に日本楽器製造株式会社(今のヤマハ株式会社)をつくり、研究に研究を重ね、1900(明治33)年、ついに国産第1号のピアノを完成させました。
 寅楠が作った楽器は日本だけでなく、世界各地で認められるようになりました。04(明治37)年、アメリカのセントルイス万国博覧会で寅楠の作ったピアノとオルガンに国産楽器として初めて賞が贈られました。こうして寅楠の作ったピアノとオルガンは、日本だけでなく海外にも輸出されるようになりました。

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参考文献:児童向け「美しき旋律のために『音』に生きた山葉寅楠と河合小市」鶴見正夫

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