平野又十郎 幼少から勉強家 地域に図書館

2020年8月22日 05時00分 (8月22日 05時00分更新)
又十郎が暮らした平野家の屋敷=2015年撮影

又十郎が暮らした平野家の屋敷=2015年撮影

  • 又十郎が暮らした平野家の屋敷=2015年撮影
 平野又十郎(1853~1928年)は、掛塚村(今の磐田市掛塚)の廻船問屋に生まれました。
 幼い頃から向学心に富み、近くの寺で漢学を学びました。明治維新で社会が大きく変化すると、新しい世界を学ぶため、東京に出て、官僚の家の住み込み書生になりました。その後、神戸の会社に勤め、経営や洋式簿記、英語などを学びました。
 ジェームズ・ペイトン号事件(「浜松歴史のとびら」13)の時、通訳として活躍したのが又十郎です。英国船が福島村(今の浜松市南区福島町)に座礁してから船員を横浜に送り届けるまで通訳を務めました。英語を理解できる人が他にいない中で万が一にも間違えがあっては困るので、砂地に英語を書いて確認したこともあったそうです。
 1877(明治10)年、又十郎は貴布祢村(今の浜松市浜北区貴布祢)の豪農平野家の養子になり、当主になりました。
 又十郎の知識欲は旺盛で、東京の新聞を取り寄せ、自分が読んだ後は自宅の近くに設けた新聞縦覧所に掲示して村人にも広めました。
 79(明治12)年、村人にお金の大切さを説き、同心遠慮講という貯蓄組合をつくりました。毎月、お金を積み立てて生活に備えるとともに、講演会を開いて新しい知識を広めたり、図書館を開いて村人に学ぶ場を提供したりしました。同心遠慮講は、遠州地方で盛んだった報徳思想と結びつき、地域の近代化を推し進める大きな力になりました。

◆金融にも尽力 今の静岡銀行に

 80(明治13)年、浜松で金融業と貿易業を兼ねた西遠商会をつくり、5年後、西遠銀行をつくりました。その後、他行と合併を重ね、1920(大正9)年、県下最大の資本力を持つ遠州銀行をつくり上げました。遠州銀行は、新遠州銀行を経て、又十郎の死後、県内三大銀行が合併し、今の静岡銀行になりました。
 又十郎は、明治期の浜松三大会社の一つといわれた帝国制帽(今のテイボー)など、多くの会社の創業にも深く関わりました。
 金原明善との親好により社会事業にも積極的で、遠州地方や朝鮮半島などで植林も行いました。

<もっと知りたい人へ>
参考文献:児童向け「郷土の発展につくした人々 下巻」静岡県教育委員会

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