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【わがまちの偉人】加賀太きゅうりのルーツ生む 米林 利雄(1918〜2009年)

2020年8月13日 05時00分 (8月13日 05時03分更新)
祖父が残した太きゅうりを栽培する孫の米林格栄=石川県かほく市で

祖父が残した太きゅうりを栽培する孫の米林格栄=石川県かほく市で

  • 祖父が残した太きゅうりを栽培する孫の米林格栄=石川県かほく市で
  • 米林 利雄

模索を重ね特産品に


 金沢を代表する夏野菜の一つ、加賀野菜の加賀太きゅうり。ウリと見間違えそうなほど太く、重さは通常のキュウリの五本分ほどある。多くの人に親しまれるが、そのルーツが金沢市久安の篤農家、米林利雄らによって生まれた「金沢太きゅうり」とはあまり知られていない。(田嶋豊)
 昭和初期、久安からほど近い寺地では金沢節成きゅうりが作られ、値段が安くなると、太く育て煮きゅうりとして市場に出荷していた。一九三六(昭和十一)年の秋。「あんちゃん、このウリを作ってみてくれないか。寺地らのよりきっと面白いものになる」。有松の青果商人、鶴来六三郎がそう言って米林にキュウリの種を二百粒ほど手渡した。
 米林は「一人で作って駄目にしたら大変だ」と思い、近在の畑作農家七人に種を分けた。出来たキュウリは二年ばかり黄色がかったが、太く、立派なものだった。その後、米林は陸軍に入隊。畑を離れた間も、家族や他の農家が守った。
 戦後の食糧不足で、農作物の需要はますます高まった。久安では産業研究会ができ、トマト栽培にも力を入れた。品種を統一するため、米林らは京都の種苗会社を訪問。その際、優良な種子を確保するため太きゅうりの選別も依頼した。同社の農場で試作された種が、その後の元種となった。
 米林は、より良い栽培方法を模索した。太きゅうりを新たな特産品にともくろんだ市もサポートした。五二年にあった農産物の品評会で、米林らはみそ漬けにして初めて世に出した。そのとき、市の職員が「金沢太きゅうり」と命名した。
 その後、久安は市街化が進み、栽培が難しくなった。七〇年ごろ、米林と息子の利栄(としえ)(76)は昼夜の寒暖差がある当時の高松町(現かほく市)に新たな土地を求め、産地は市西部の打木町に移った。
 「おやじには土に生きる喜び、厳しさを教わった」と利栄は言う。今も現役で、自然と向き合う。幼いころから農場で祖父、父の姿を見てきた孫の格栄(かくえい)(49)も「何十年の月日をかけて今がある。これから逃げることはできない」。固定種を守る一農家として、責任と誇りがにじむ。
 産地の打木町でもまた、砂丘地に見合うよう改良した「加賀太きゅうり」を守り、ブランド価値を高めてきた。現在、生産者の部会長を務める中林圭吾(38)は祖父、父と続く三代目。「先人が残してくれたものを、次へとつないでいかないといけない」。食文化が守られ、種も残っていく。 =敬称略
     ◇
 次回は、珠洲焼の発掘や復興に貢献した珠洲市の中野錬次郎(一九一四〜九六年)を紹介します。

 よねばやし・としお 1933(昭和8)年3月、金沢市三馬尋常高等小学校卒。人と人との出会いを大切にし、「多くの人の知恵と労力、苦労があってこそ大事業ができる」が人生哲学だった。享年90。


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