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79年前甲子園が中止になった夏、そして徴兵…"フォークボールの神様" 杉下茂94歳の証言

2020年8月11日 17時25分

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戦況の悪化。早まる徴兵

 杉下さんは実際に戦地を経験した野球選手でもある。43(昭和18)年12月に、4ヶ月繰り上げで卒業。就職したヂーゼル自動車工業(現・いすゞ自動車)には、この頃に解散したプロ野球の大和軍の元選手も多数在籍していた。
 彼らは昼休みには、あちこちでキャッチボールを楽しんでいたそうだ。だが杉下さんは、その輪にも入らず過ごしていた。
 折しも戦局は悪化。兵力不足を補うため、徴兵年齢が20歳から19歳に引き下げられた。これを受け、杉下さんは44(昭和19)年5月に徴兵検査。「第一乙種」で合格した。最上位の「甲種」でなかったのは、銃の照準を合わせるのに重要な視力が悪かったから。そして幼少期から肺を患っていたからだ。
 「私は神保町で育ったんだけど、空気が良くない。だから野球は細々とでもいいから、練習を終わって(車の交通量が減る)暗くなってから帰ってこい。いつも母にそう言われていたんです」
 軍には、甲種合格者から順に召集されるはずだった。だがすでに、そんな悠長なことを言っていられないほど、戦局は悪かった。杉下さんは同年の12月25日に入隊した。

「不安覚える装備」で最前線へ

 記憶力が非常に鮮明な杉下さんだが、所属部隊は「覚えていない」とのことだった。宇都宮市に向かっていることから、配属は陸軍第14師団と思われる。
 年が明けた45(昭和20)年1月3日、いよいよ出征する。宇都宮から博多へ。博多から輸送船で釜山へ。制海権は失っており、これだけの移動そのものがかなりの危険を伴ったはずだ。

中国に出征した杉下氏(前列右)

 釜山から再び鉄道で移動した。3日ほど揺られ、おそらく満州国境を越えたあたりで今度は徒歩での移動が始まった。
 「十里行軍とでもいうんでしょうか。1日40キロほどを10日間は歩かされた。寒さがこたえてね。また装備が不安だった。地下足袋ですよ。銃も私は軍事訓練を受けていたから、三八式といって少しはまともな物だったけど、他の人は命中率が格段に劣る物を渡されたんです」
 「途中で武漢に寄った記憶があるんです。今回、コロナで有名になったあの武漢。そこでようやく靴(軍靴)を支給されたことを覚えています」
 入りたての兵から見ても、戦闘には不安を覚える装備で、ようやくたどり着いたのが安徽省巣県(現・巣湖市)だ。地図を見ればすぐわかるのだが、安徽省は上海の内陸にある。つまり上海まで海路でいけば行軍期間ははるかに短縮されたはずだが、朝鮮半島からぐるりと迂回している。安全が担保されないからだということが、簡単に想像できる。終戦7カ月前。まさしく最前線に配置されたのだ。

たった1通。届いた「知らせ」とは

 巣県での新兵訓練をへて、4月には上海近くの飛行場に異動となる。試験に合格し、予備士官学校に入学するためだ。ところが、入学に必要な書類が本土から届かず、待機が続いた。後にわかるのだが、もはや船舶が大陸と日本を往来できる状況にはなかったのだ。

戦死した兄・安佑さん

 この間、杉下さんのもとに届けられた手紙は1通のみ。それが兄・安佑(やすすけ)さんの戦死を知らせるものだった。海軍の通称「神雷部隊」に所属した安佑さんは、特攻のために開発された滑空機「桜花」に搭乗した。これは目標付近で母機から切り離され、機首に搭載した爆弾ごと体当たりするという作戦で用いられた機体である。
 命中率を上げるために人間が乗るのだが、ほとんど戦果を挙げることができなかった「必死」の策だった。
 遠く上海で兄の死を知った杉下さんは、やがて8月15日、終戦の日を迎えた。予備士官学校に入ることも、実際の戦闘に加わることもなかった。「雑音混じりでほとんど聞こえなかった」という玉音放送だが、敗戦の事実だけは理解できた。

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