「殉難おとめの像」前 慰霊の集い

2020年8月8日 05時00分 (8月8日 10時21分更新)
殉難おとめの像に花を手向け、隊員をしのぶ歌を歌う西村八重子さん(左)=金沢市末広町で

殉難おとめの像に花を手向け、隊員をしのぶ歌を歌う西村八重子さん(左)=金沢市末広町で

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元女子挺身隊員・西村さん 空襲の悲惨さ語る
「戦争は、絶対にさせてはならんことや」


 戦時中に愛知県豊川市の豊川海軍工廠(こうしょう)で空襲の犠牲となった女子挺身(ていしん)隊を追悼する慰霊の集いが七日、金沢市末広町の「殉難おとめの像」の前であった。元隊員や遺族ら十一人が犠牲者を悼み、平和を祈った。(戎野文菜)
 しとしとと雨が降る中、参列者が隊員をしのぶ歌「ああ豊川女子挺身隊」を合唱。像の横にある平和の鐘を鳴らし、黙とうした。
 一九四五(昭和二十)年八月七日、「東洋一の兵器工場」といわれた豊川海軍工廠は米軍による空襲を受けた。二十六分間で落とされた爆弾は三千発以上。石川県内出身の女子挺身隊五十二人を含む約二千五百人が犠牲となった。殉難おとめの像は六二年、中日新聞北陸本社の呼び掛けで、元隊員や遺族らでつくる豊友会などが協力して建立。毎年像の前で犠牲者を追悼する集会が開かれている。
 元隊員は現在、九十代半ばになっており、遺族の高齢化も進む。豊友会の世話役で、像を管理している中山正一さん(71)は「年々参列者が減っている。できる間は活動を続け、戦争の事実の上に平和があることを語り継いでいきたい」と話した。
 「石さん、助けて」。女子挺身隊員だった西村八重子さん(95)=旧姓石浦、金沢市東山=は、がれきの中から自分を呼ぶ少女の声が忘れられない。
 富山県出身の西村さんは、金沢市で事務の仕事をしていた一九四三年ごろ、挺身隊に入った。「私もお国のために働ける」と当時は喜んだという。豊川海軍工廠で、双眼鏡を作るための金属を削る作業を担当。一緒に働く隊員たちは十五、六歳と年下の子が多く、姉のように慕われていた。
 空襲時、寄宿舎にいた西村さんは廊下で他の隊員と雑談していた。「米軍機が低空飛行で近づいてきて耳をつんざくような音がした。言葉では言い表せない怖い音だった」
 その場で正座をするように身をかがめ、体を丸くしてうずくまった。その後は覚えていない。目を開けたら「右腕に何かが刺さり、血があふれていた。腰にも何かが当たって痛かった。立とうとしても、ふらふらして倒れた」。
 木造二階建ての寄宿舎はつぶれて燃えていた。がれきの中から「助けて」と呼ぶ声が聞こえ「今誰かが助けてくれるよ。なんまんだぶつ(南無阿弥陀仏)を言うて待っとろうね」と答えた。だが、呼ぶ声はだんだん途絶えていった。
 殉難おとめの像の前で西村さんは毎年、若くして亡くなった少女たちを思い出す。「若い子にあんな苦しみをさせる戦争は、絶対にさせてはならんことや」

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