<記憶>(5) 東海道線・新垂井駅跡 輸送力増強への迂回線

2020年8月8日 05時00分 (8月8日 05時00分更新) 会員限定
旧「新垂井駅」のホーム横を通過する貨物列車=垂井町大石で

旧「新垂井駅」のホーム横を通過する貨物列車=垂井町大石で

  • 旧「新垂井駅」のホーム横を通過する貨物列車=垂井町大石で
 JR大垣駅から東海道線を西へ。垂井、関ケ原を経て県境へと向かうが、実は、一般に知られている線路とは別に、大垣駅を出てから北に分岐して、関ケ原駅の手前で合流する迂回(うかい)線が走っている。
 迂回線が敷かれたのは、太平洋戦争ただ中の一九四四(昭和十九)年のこと。従来の線路は、関ケ原駅に向かって急勾配となっているため、蒸気機関車の後ろに補助機関車を増結しなければならなかった。物資も人材も不足する中、石炭の節約、増結作業の省力化などで輸送力増強をしたい。そのためには、勾配を緩やかにした迂回線が必要だった。
 工事には朝鮮人労働者など六十万人が携わったとされる。当初、駅を造る予定はなかったが、旧府中村(垂井町府中)の村長らが嘆願し、「新垂井駅」が設置された。
 「終戦後、進駐軍が乗った列車が勾配の途中で止まるたび、子どもも大人も食べ物を求めて集まった」。迂回線の沿線に住む関ケ原町の男性には、そんな思い出も残っている。
 やがて、新垂井駅は利用者の減少とともに七一年に無人駅になり、八六年に廃止された。今は野草に覆われたコンクリートの長いホームだけが残っている。
 現在、迂回線を走っているのは、特急「し...

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