武器作る手助けを悔やむ 名古屋の望月さんが悲劇語り継ぐ

2020年8月7日 05時00分 (9月18日 15時23分更新) 会員限定
学友42人が亡くなった空襲の資料を見ながら体験を語る望月さん=名古屋市名東区内の自宅で

学友42人が亡くなった空襲の資料を見ながら体験を語る望月さん=名古屋市名東区内の自宅で

  • 学友42人が亡くなった空襲の資料を見ながら体験を語る望月さん=名古屋市名東区内の自宅で
  • 市三高女生の勤務姿を美談として報じた1945年2月6日付の中部日本新聞(現中日新聞)
 名古屋市名東区亀の井一の望月菊枝さん(90)は女学生だった太平洋戦争末期、学徒動員により航空機部品を製造する三菱電機の工場に勤めていた。空襲を避けるため移転を繰り返した工場はついには爆撃され、多くの学友を失った。昭和から平成、そして令和へ。卒寿を迎えても、後世に伝えたい思いは変わらない。「武器がなければ攻撃されない。この国に軍備は必要ない」(右田誠弥)
 大曽根にあった工場へ動員されたのは、市立第三高等女学校の二年生だった一九四四(昭和十九)年のこと。鋳造部品にやすりをかけ、機械でつるして薬品に浸し、メッキを施す作業を担っていた。作った部品の使い道に興味はなく、計器の目盛りに塗る夜光塗料でカバンに落書きをすることに夢中だった。十四歳、学校で勉強したり友人たちと遊んだりしたい盛りの年ごろ。それでも、「工場で働くのは当たり前のことだと思っていた」と振り返る。
 航空機の製造工場は米軍の重要標的で、望月さんの工場も度重なる空襲を受けた。動員学徒で人数が増えたため防空壕(ごう)が足りず、空襲警報が鳴れば周囲にあった田んぼへ走って逃げ、あぜ道に伏せた。生徒の身を案じた校長が作業場を工場から同校の敷...

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