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三ケ日みかん 革新の軌跡

大暴落<上> 生産過剰 「足らん」が「いらん」に

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 「どれほどの売り上げになるか…」

 早生ミカンの出荷シーズンを前に、永田美明(81)=浜松市北区三ケ日町岡本=は胸を躍らせていた。第一次石油ショックの前年の一九七二(昭和四十七)年。その年は表年で全国的に作柄もよく、史上最高の収穫量が見込まれていた。永田自身、父から継いだミカン園を少しずつ山を開墾して増やし、さあこれからという時だった。

 ところが、九月下旬の初出荷から相場は意外な様相をみせる。表年とは思えない安値推移のまま、十一月に入ると各市場には大量のミカンが押し寄せて値崩れし、下値が見えない底割れ状態となった。大暴落の始まりだった。

 三ケ日町柑橘(かんきつ)出荷組合は厳しい出荷規制で臨んだが、年が明けて早生から普通種に切り替わっても下落は止まらない。出荷量は前年の四割増という中で軒並み豊作貧乏の状態に追い込まれた。

山肌にひな壇状の曲線を描く大規模造成地。ミカン価格が大暴落した1972年には三ケ日町も生産量3万トンを超えた=浜松市北区三ケ日町で

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 六〇年代半ばから全国で巻き起こったミカンの増植は、適地、不適地を問わず拡大を続け、七二年には空前の生産量三百五十六万トンを記録。逆に、輸入自由化と食の多様化の中で消費は頭打ちとなり、倍々ゲームで広がった産地とのバランスが一気に崩れた。生産過剰は明らかだった。当時、「三町歩(約三ヘクタール)経営」を組合員の目標に急成長していた三ケ日も「いつかは…という不安」(永田)が現実となった。

 「忘れもしない一月十五日、市場からの電話で、例年なら八十円前後のキロ当たり単価が三十七円という耳を疑う安値だった。生産者にとっては完全に採算割れだった」。当時、三ケ日町農協の柑橘販売課長だった井口邦治(73)=同町三ケ日=は振り返る。他県では農家の平均手取り額がキロ三円という産地もあった。「行き場のないミカンが牛の餌になっている」とのうわさが三ケ日の町に広がったのもこのころだ。

 ミカン相場の最初の暴落は、全国の出荷量が二百万トンを超えた六八年に起きていた。長く農協の販売主任を務めた中根悦夫(72)=同町福長=が言う。

「電車を乗り継ぎ、中京や京浜の市場へ必死に売り込みに回った。それまで入荷量の不足を『足らん、足らん』とぼやいていた競り人が、あふれ返る荷の山を前に『いらん、いらん』が口癖になった」

 そのころ、三ケ日町の急坂の農道を毎日のようにバイクで走り回る若い柑橘技術員がいた。トライアルバイクが趣味の川崎博久(65)=同町大谷=は、山から山へ、ミカン畑をくまなく巡る巡回指導のハンドルを握りながら、あることに気付いた。農協の奨励系統になって数年がたつ「青島」が、相当の面積で在来種と植え替わり、日当たりと水はけの良い南斜面に実を付けている。市場ではそれが、在来種と同じ「三ケ日みかん」の名で売られていた。

 「高糖度の青島だけを選んで、舌の肥えた首都圏の消費者向けに出荷してみたら…」。川崎には、トンネルの先に一点の光が見えたような気がした。

=敬称略

(編集委員・八木義弘)

 

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