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三ケ日みかん 革新の軌跡

死中に活<下> 築地で最高値評価一変

今も貯蔵倉庫として残る柑橘出荷組合発足時の選果場を前に、当時を振り返る河合嘉一さん=浜松市北区三ケ日町日比沢で

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 国鉄二俣線(現天竜浜名湖鉄道)三ケ日駅に隣接する三ケ日町柑橘(かんきつ)出荷組合の「四番倉庫」は、朝から組合員らのざわめきに包まれていた。一九六一年三月のことだ。

 組合の存亡をかけた乾坤一擲(けんこんいってき)の東京出荷。その結果を固唾(かたず)をのんで待つ組合員に、吉報が届いた。東京では無名に近い三ケ日みかんが築地市場で他産地を押しのけ、最高値を付けたというのだ。

 「全員集合との連絡で、すぐに四番倉庫へ駆けつけた。どうせだめならと最後の一投のつもりだったが、予想もしない最高値と聞いて『よーし、やるぞ』と。それからミカン作りに本腰が入った」と、三ケ日町(現浜松市北区)鵺代(ぬえしろ)の代表委員だった河合嘉一(82)。

 販売不振から一度は解散寸前にまで追い詰められた出荷組合だが、野球で言えば九回裏の逆転ホームランだった。築地での評判を聞いた神田市場からも大量の引き合いが入るなど、市場の評価はうなぎ上り。「決め手は徹底した選果だった。それまで東京には三ケ日みかんは一個も出回っていない。そこへ各農家でえりすぐりのものを集めて出したから、ねらいが的中した」(河合)。これには偶然、市場に居合わせた愛媛県青果連の会長が「愛媛ミカン以外にこんなにうまいミカンがあったのか」とショックを受けて帰ったとの後日談まで伝わった。

 評価は地元でも一変した。自信を失いかけていた百五十四人の組合員に励みとなったのはもちろん、東京での成功は共選共販による計画的、安定的な大量出荷のメリットを強烈にアピールした。その年、六一年四月には三ケ日町農協と隣接の東浜名村農協との合併もあり、同年九月の出荷組合の第二回総会では組合員数が発足時の百五十四人から六百六十五人に激増した。

 「今で言うブランドという概念をわれわれは持っていなかったが、結果的にブランド作りを行っていたのではないか」。出荷組合の五十周年記念誌(二〇〇九年刊)で組合長、のちには三ケ日町長(二期)として産地化の先頭に立った竹上善博が振り返っている。

 少人数から出発し、孤立も恐れず困難を乗り越えていった組合員たちのパワーの源泉は何だったのか。

 出荷組合発足の年に柑橘技術員として三ケ日町農協に入った元営農部長の清水理(おさむ)(75)が言う。「自分で生産したミカンを百パーセント組合に持ち寄り、組合を通して売る。それがより自分の利益になり、一つのブランドとして市場からも信頼される。このことを組合員が身をもって体験し、確信したのがあの東京出荷だったのではないか」

 その清水もまた、六〇、七〇年代の「三ケ日みかん」の大躍進を担うマンパワーとなっていく。

=敬称略

(編集委員・八木義弘)

 

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