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三ケ日みかん 革新の軌跡

死中に活<中> 一度は死んだ身…東京で勝負

竹上敏雄さん

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 時計の針は午前三時を回っていた。

 もう何時間になるだろうか−。三ケ日町役場(現浜松市北区)が同居する古い農協の二階事務所で、柑橘(かんきつ)出荷組合の十六地区の代表委員は皆、押し黙り、たばこの煙だけが裸電球の光に揺れていた。

 「私にできることは全部やってみたが…」。出荷ミカンの販売不振から組合長の竹上善博(昨年二月死去)らが足を棒にして販路開拓に歩いたものの、市場の反応は冷たかった。発足以来、業者の買値を下回る安値が続き、上向く気配もない。「解散やむなし」と全員が立ち上がった時だった。一人の委員が手を挙げた。

 長根地区の中根由之(二〇〇三年没)だった。同地区は三ケ日を代表する産地の一つ。しかし組合加入者はわずかだった。

 思い詰めたように中根が言った。「このまま解散には反対だ。俺たちは一度は死んだつもりでこの組合をつくったんだ。なっ、みんなそうだろ? どうせ死ぬなら東京へ出荷してみて、それでだめなら花の東京でいさぎよく腹を切ろうじゃないか」

 ハッと何かに打たれたようだった。ややあって、ほかの組合員が続けた。「そうだ」「そうだったよな!」

 「あの一言で空気が一変したんだ。皆、吹っ切れたというか…。名古屋市場でさえ相手にされないのに、という反対意見も一部の委員から出たが、最後は竹上組合長の判断で(東京出荷を)やるだけやってみようということに決まった」と、御薗地区の代表委員だった竹上敏雄(90)。

三ケ日みかんを満載し、選果場を出発する大型トラック(昭和30年代後半)

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 もう空が白みかけて、一度は解散と決まり家に帰った委員もいた。「当時最年少で先輩たちに『孫』と呼ばれていた私は、オイッと、すぐに呼び戻すように指図され、村に一台だけのオート三輪を大急ぎで走らせた」。同町鵺代(ぬえしろ)の河合嘉一(82)は当時の記憶をたぐる。

 東京の神田や築地市場には当時、三ケ日からネーブルがわずかに出荷されていただけだった。大消費地を抱えた値動きの激しさから、地元の買い取り業者も大半がミカンの出荷を手控えていた。

 一方、ミカン産地で名が通っていたのは愛媛、広島、大分などの先進県だった。生産者による出荷組合の発足も一足早く、高度経済成長を前にした需要増に、安定した品質と大量出荷でそれぞれ確固たる地位を築いていた。そんな中で知名度ゼロ、市場に出回ってさえいない「三ケ日みかん」のいきなりの出荷は無謀ともいえるものだった。

 代表委員会でのどんでん返しから間もない三月八日。国鉄二俣線(現天竜浜名湖鉄道)三ケ日駅に隣接する「四番倉庫」と呼ばれた選果場に、各農家からえりすぐりの貯蔵ミカンが集められた。貯蔵ミカンは収穫後の一定期間、低温熟成させることで酸味を抜き、うまみを引き出す。知名度で群を抜く愛媛にない三ケ日の強みだった。

 段ボール箱に詰めたその量、およそ五トン。中根が言った「花の東京」のど真ん中、築地市場に向け、組合員のいちるの望みを託した大型トラックがエンジン音を響かせて走り出した。

=敬称略

(編集委員・八木義弘)

 

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