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三ケ日みかん 革新の軌跡

死中に活<上> 出荷組合 販売不振で窮地

故竹上善博さん

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 昨年二月十一日。珍しくミカン畑に雪が舞う日だった。半生を三ケ日みかんの戦後史とともに生きた一人の男性が、眠るように息を引き取った。三ケ日町柑橘(かんきつ)出荷組合の初代組合長で、元町長でもあった竹上善博。九十九歳の大往生だった。

 時代はほぼ半世紀前の一九六一(昭和三十六)年にさかのぼる。この年、二月下旬の北陸は豪雪に見舞われていた。前年秋に発足した出荷組合の販路を広げようと、竹上は副組合長の夏目英吉(二〇〇四年没)らと敦賀、福井、金沢の各市場を、コートの襟を立て、足を棒にして訪ね歩いていた。

 経済白書に「もはや戦後ではない」という言葉が登場したのは五六年。日本人の食糧事情も、ただ空腹を満たすためから味覚への欲求が高まり、ミカンなど果物への需要が急増。三ケ日みかんの生産量も五八年には戦前の水準を追い越すなど大増産時代に入っていた。一方、販売はといえば農協以外に買い取り業者や個人が市場に出したり、地区ごとに出荷組合があったり。旧態依然で品質もそろわず、市場で買いたたかれていた。

 「町の主産業がこれでは伸びない。ミカンだけを扱う生産者主体の販売・指導組織をつくり、市場と直接取引しないと」。そう考えた農協理事の竹上が同じ理事の夏目、生産委員長の久米邦市(九一年没)と相談、農家に呼び掛けてできたのが柑橘出荷組合だった。

国鉄二俣線(現天竜浜名湖鉄道)三ケ日駅前倉庫でのミカンの出荷風景(昭和30年代、「三ケ日町柑橘出荷組合50周年記念史」から)

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 しかし、集まった組合員は全農家の二割にも満たない百五十四人。しかも、主産地の只木、平山、大福寺地区などからの参加はわずか。元三ケ日町農協参事の中川晋(88)の言葉を借りれば、「不安な船出」そのものだった。

 理由ははっきりしていた。「それまでは農家が自由に売っていたが、新しい組合には全量・計画出荷の決まりごとに加えて違反者に厳しい罰則もある。産地を束ねる出荷組合ができては死活問題という地元の買い取り業者の抵抗も大きかった」と、主産地の一つの御薗地区の出荷組合代表委員だった竹上敏雄(90)は言う。

 発足以来、組合出荷の市場価格は業者の買値を下回る安値続き。「ミカンをどぶに捨てるようなものだ」。そんな陰口もたたかれる中、組合は存続の意味さえ問われる状況に追い詰められていた。

 「解散しかない…」。無名の三ケ日産に、取引を直談判した北陸などの市場の反応も冷ややかだった。このままでは損が膨らむばかり。組合員にかけた迷惑は自園のミカンを供出してせめてもの責任を取ろう…。雪の降りしきる金沢駅で、竹上善博は意を決して組合事務所へ電話を入れた。

 「二俣線(現天竜浜名湖鉄道)の最終列車で夜に三ケ日へ戻ると組合長から連絡があり、急きょ代表委員会を開くことになった」。不安がよぎるなか、敏雄は自分を含め十六地区の代表委員とその時を待った。

=敬称略

(編集委員・八木義弘)

 

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