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三ケ日みかん 革新の軌跡

農協倒産<下> 再建支えた“スッポン指導員”

再建時代の三ケ日町農協の役職員。前列中央が「スッポン指導員」として知られた原茂吉=「赤い鉄のごとく」から

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 戦後、経営難から窓口を閉鎖して貯金の支払い業務などを止める貯払い停止になった旧三ケ日町農協。その再建劇には、中川晋(88)や高橋一馬(85)らわずかに残った若い職員を陰で支えた黒子(くろこ)がいる。窓口業務を再開した一九五三(昭和二十八)年一月、県農協中央会から再建指導員としてやって来た原茂吉だ。

 失墜した農協への信頼をどう回復するか。原がまず取り組んだのが、町の住民や組合員に農協の現状をつぶさに知ってもらうことと、再建後を見越した組織づくりだった。

 着任の翌日から職員らと準備を始めた町内二十二地区の巡回座談会。会合の資料と言えるものは夜、薄暗い裸電球の下で原が書き、中川がガリ版で刷った一枚のわら半紙だ。しかし、原はそこで、改善しつつある財務内容の説明とともに、地域農業の将来を担う青年部、婦人部の必要性を訴えた。

 当時、農協の唯一の乗り物は、扉のないオート三輪だった。真冬のいてつく深夜、議論が尽きない地区座談会を終えて、荷台で震える肩を寄せ合いながらでこぼこ道を農協へ帰る日が続いた。「赤い鉄のごとく」(八八年)や「三ケ日町農協史 協同活動三十年の軌跡」(九二年、いずれも同農協刊)には、貧しくも明日への希望を捨てなかった農協マンたちの土の汗がにじんでいる。

 新婚間もない単身赴任だった原に用意されたのは、町役場が同居する古い農協の、すきま風が吹き抜ける二階の十畳間だった。そこに寝起きして、朝に晩に若い職員たちの陣頭指揮を執る。その姿はどこか、大正期の三ケ日にミカン栽培の技術を伝えた中川宗太郎を思わせた。

 オート三輪が威力を発揮した各地区での再建協力貯金の推進もあって、農協は計画より一年早い五六年度末に欠損金を解消、翌年度には組合員への出資配当が復活した。

 「再建のために何が大切か」と、ある農協役員が原に尋ねたところ「人の心をつかむことです。懐に飛び込み、スッポンのように食らい付いて話し合えば分かってもらえる」と答えたことから「スッポン指導員」のあだ名が付いたという。のちに県農協中央会総務部長に就任。再建三ケ日の大発展を見届けるように、半世紀後の二〇〇一年、八十六歳で没している。

 「若者には夢がある。力がある。だから団結しなければと教えられた。常に真剣で誠実な方だった」。五三年八月にできた農青連(三ケ日町農協青年連盟)の結成準備委員だった高橋仲吉(85)はこう話す。

 農協には今も、原が離任時に残していった一枚のガリ版刷りがある。「将来の三ケ日町を夢見る」と題し、そこには各集落を結ぶ有線放送電話のイラストが描かれている。当時、ごく一部の先進農協だけが持っていた有線放送が三ケ日に開局したのは、離任から七年後の六〇年。その時、架線用の電柱を一本一本担いで運んだのは、原が心に希望の種をまいた農業青年たちだった。

=敬称略

(編集委員・八木義弘)

 

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