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三ケ日みかん 革新の軌跡

非国民<上> 「不要不急」のレッテル

 「全ミカン園を主食作物に転換せよ」

 太平洋戦争が激しさを増したころ、三ケ日町(現浜松市北区)に駐屯していた陸軍部隊から非情な指令が各農家に伝わった。

 戦前、静岡県産ミカンは一九三四(昭和九)年には鉄道輸送量で和歌山を抜き、全国トップに躍り出ていた。しかし戦争の激化に加え、食糧増産はコメ、麦などが最優先。人手も肥料・農薬もなく、不要不急の作物とされた柑橘(かんきつ)類は三ケ日でも衰退の一途をたどっていた。この地に近代栽培技術をもたらした開南組の専任技師・中川宗太郎が考案して西遠地方の風物詩となった冬場の「こも掛け」も、空襲の目標になるとの理由で中止に。からっ風に葉を落としたミカンの木が、畑に無残な姿をさらしていた。

 「戦争さなかに外地から復員すると、ミカンの木をカボチャの棚にして一家で食糧増産に励んでいた。すぐに父の後を継ぎ、見る影もないミカン畑に少しずつ苗を補植して、その間に麦やサツマイモを植えた」と、三ケ日町福永の石橋正登(96)。

 追い打ちをかけたのが、国からの強制的な食糧の供出割り当てだった。「広い農園のミカンの木を一畝おきに一斉に切って麦やサツマイモを植えたが、それでも供出量に追いつかない。ミカンの木を守りたい一心で近在や愛知県の農家を回り、供出用の麦などを買い集めてしのいでいた」。同町釣の小宮山昭(73)は、開南組の後を継いだ父の沢太から聞かされた当時の苦労を語る。

 新たに赴任した知事から「静岡県下一万町歩にちかい柑橘園を全部、ムギ作に転換せしめる計画を作れ」(静岡県柑橘史)との通達が出されたのは、日増しに戦局が悪化する四三年秋ごろのことだった。

 手塩にかけたミカンの木を切るのをためらう農家に、周囲から容赦ない罵声が浴びせられた。国策とはいえ、十年、二十年と育て上げたミカンはわが子も同然だった。

 その時、一人の技師が声を上げた。開戦の前年、現在の静岡市清水区駒越西に開設された県柑橘試験場(現果樹研究センター)の初代場長、高橋郁郎(一八九二〜一九八一年)だった。

 「柑橘園の中耕(作物の生育途中に浅く耕すこと)に先生は真田帽子に白の上衣、上等とは思えないダブダブの土靴、深耕グワを肩に出かけられた。その後に続いたのがわれわれであった」。後に「柑橘の父」と呼ばれた高橋の追悼集の中で、後輩の一人が人柄を語っている。中泉農学校(現磐田農高)を出て、試験場の見習生から一貫してミカン作りの現場に身を置いてきた。その気さくな場長先生が、静岡のミカンを全滅の危機から救うことになる。

=敬称略

(編集委員・八木義弘)

 

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