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三ケ日みかん 革新の軌跡

逆風の中で<下> 自分たちの手で売る

三ケ日みかんの“中興の祖”中川宗太郎(中列右から3人目)とその門下生たち

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 開南組農園の専任技師・中川宗太郎が教えたのはミカンの栽培技術だけではなかった。作ったミカンをどう売るか。それまでもっぱら買い取り業者の手に委ねられ、畑仕事に明け暮れる農家には考えも及ばないことだった。

 中川が実践した秋植えは当時、廃園が相次ぐ農家から買い取った成木が多く、弱った樹勢さえ回復させれば収穫までは早かった。開墾からわずか四年後の一九二四(大正十三)年、三河から呼んだ業者を相手に、中川は採れたミカンを量り売りで取引した。今でこそ常識だが、それまでは農園のミカンを収穫前に丸ごと売る山売りや、果樹ごとに売る立ち木売りがほとんど。コメの青田買いのようなもので、売り手の不利を熟知していた中川は「せっかく丹精した果実をなぜ無益に売るのか」と、さらに共同組織による共同販売を呼び掛けた。

 そんな中川に心酔し、同志的結束を深める若いミカン農家たち。行動は早かった。

 元県柑橘(かんきつ)試験場西遠果樹分場長の山岡照平(九五年没)が書いた「浜名湖みかん史話」(八二年刊)には、開南組に出入りした中川の弟子として、岡本(三ケ日町の地区、以下同)の永田貫一、大福寺の牧野朝雄、平山の木下光次、山田猛、長根の清水正三らの名が残っている。

 「詳しい記録などはないが、祖父がまだ青年だった時分にミカン仲間と出荷組合をつくり、有り合わせのリンゴ箱に詰めて豊橋まで苦労して馬車で運んだと聞いている」と、永田重則(65)=浜松市北区三ケ日町岡本。重則の祖父・永田貫一は当時、不振続きのミカンを伐採して桑畑にしようとしていた牧野を中川に引き合わせて説得。ところが今度はその牧野が中川にほれ込み、牧野を組合長に大福寺地区の同志七人が結束して「丸福出荷組合」ができた。これが三ケ日はもちろん、西遠地方のミカン共同販売の始まりとなった。

 「祖父の後を継いだおやじも出荷組合にはよく顔を出し、大事にしていたようだ」と、牧野の孫でやはりミカン農家の孝宏(70)が言う。自分たちで作ったものを自分たちの手で売る−この自存自立の思想は時代を超え、戦後の大発展の契機となった三ケ日町柑橘出荷組合の結成(六〇年)へとつながっていく。

 二五年、多くの足跡を残して中川は郷里の清水へ戻った。しかし永田、牧野、木下、山田らは各地へ出向いて中川から学んだ栽培技術や販売方法を指導。西遠地方を県中、東部と並ぶ三大柑橘産地へと押し上げる礎となった。

 戦後の農地解放で開南組は県柑橘試西遠果樹分場の育苗園などに変わり、時を経て今はその面影もない。だが、三ケ日の地に革新の風を吹き込んで去った中川宗太郎の足跡はしっかりと残った。江戸中期に紀州ミカンの苗木を持ち帰り、浜名湖畔のミカン栽培の始祖となった山田弥右衛門、江戸末期に今日の温州ミカンを三河から導入した加藤権兵衛とともに、三ケ日みかんの三大恩人として毎年秋の頌(しょう)徳祭で関係者らが碑前に感謝している。

=敬称略

(編集委員・八木義弘)

 

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