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三ケ日みかん 革新の軌跡

逆風の中で<中> 人材育てた“中川学校”

浜名湖を一望するミカン園で「ここから一つの歴史が始まった」と語る小宮山昭さん=浜松市北区三ケ日町釣で

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 「今見ればおかしいが、和服にエプロン、足には地下足袋を履いていた」。浜松市北区三ケ日町の開南組農園跡で今もミカン栽培を営む小宮山昭(73)が、近郷から雇われて収穫作業を担っていた「切り子」と呼ばれた女性たちの姿を懐かしむ。

 一九二七(昭和二)年、小笠原・父島の熱帯植物園で働いていた父の沢太が開南組の経理役にと請われ、三ケ日へ移り住んだ。ここで七人兄弟の末っ子として育った昭には、子どものころの遊び場がそのまま父の後を継いだ仕事場となった。

 「記憶にあるのは、まだ小学校に上がるか上がらない時分だね。お昼休みや三時になると、広いミカン園を拍子木をたたいて歩きながら、切り子さんたちに知らせて回るのが私の仕事だった」

 話は開南組発足から間もない二〇年から、ここで近代的栽培指導に当たった専任技師の中川宗太郎に戻る。

大正期、ミカンの収穫に従事した「切り子」たち。和服にエプロン、足には地下足袋のいでたちだ

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 中川が教え、三ケ日から西遠地方一円に広まった技術。それが、ミカンの樹勢を保つため余分な枝を切り除く「剪定(せんてい)」だ。枝が伸びるに任せていては味や形の良いミカンは育たない。

 「樹形を乱す直立枝を切り去り、母枝を間引きして果実の数を調節する」「主な枝をはっきりさせ、懐まで十分に光を入れる」。中川式剪定法とも言われた。当代一流の園芸技師で、中川がいた農商務省農試園芸部(現在は静岡市清水区の農研機構果樹研究所)の園芸部長だった恩田鉄弥らからたたき込まれ、さらに工夫を加えたものだった。

 剪定など考えもしなかった時代。珍しがって何人かの若い農家が集まったが、中川は決して手を取って教えない。「見て覚えよ」が口癖だったという。

 JAみっかびの元理事、石橋正登(96)=北区三ケ日町福永=の父伊十(七一年没)はそのころの開南組に足しげく出入りした一人だ。

 「おやじは最初、雇われて開南組で働いていたんだが、中川先生からミカン作りの話を聞くうちに技術と人間味にひかれ、先生の門人のようになった」。石橋はそう振り返る。

 やがて各家を持ち回りで月例の勉強会が始まった。二十六歳の中川を囲んで、三十代そこそこの好奇心旺盛な若者たちが車座になる。「勉強会が終わると酒が入り、そこでも皆、ミカンの話に熱中し、気が付くといつも夜空が白みかけていた」「せっかくたわわに付いた実を、剪定は枝ごとバッサリ切り落としてしまう。親から『お前、気でもおかしくなったのか』とよく怒られた」。地元に残るエピソードの数々は、創業の時代を生きた若者たちの姿をそう伝えている。

 剪定なくしてミカンなし。さながら柑橘(かんきつ)試験場のような当時としては最先端の栽培技術の発信地となった開南組。「中川学校」の卒業生たちはそれぞれの地域のリーダーとして、昭和にかけた産地形成の原動力となっていく。

=敬称略

(編集委員・八木義弘)

 

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