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三ケ日みかん 革新の軌跡

逆風の中で<上> 近代栽培の礎 「開南組」誕生

中川宗太郎

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 浜名湖の北岸、引佐郡西浜名村(現浜松市北区三ケ日町)の釣地区。柔らかな春の日差しを映す湖面を望む丘に、一人の男がやってきた。一九二〇(大正九)年四月のことだ。

 男は農商務省農事試験場園芸部(現農研機構果樹研究所=静岡市清水区)から専任技師として招かれた中川宗太郎(一八九五〜一九四二年)。この丘に二年前に開かれた「開南組(かいなんぐみ)」農園でミカンの栽培を指導をするためだ。

 「開南組」は、財閥・三井家の三井高精(たかきよ)らが出資した柑橘(かんきつ)園造成事業の拠点だった。

 巨大財閥は明治以来、日本の南洋への開拓統治と資源開発を資金面で支えた。高精らも八丈島の開発に乗り出すが、難航の末に断念して浜名湖畔のミカン栽培に転じた。その詳しい経緯は分かっていないが、この地の温暖な気候とミカン栽培に適した地質は当時から知られていた。しかし栽培技術がない。そこで白羽の矢が立ったのが中泉農学校(現磐田農業高)を出て試験場の見習生を終えたばかりの中川だった。

開南組の関係者宅から最近見つかった創業当時の資料。畑ごとの収穫見込みと実収量が記されている

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 ミカン農園の名前がなぜ「開南」なのか。元小学校教諭で「三ケ日町郷土を語る会」顧問の藤田正夫(89)=同町三ケ日=はそんな疑問を抱え、二年前、八丈島から遠く小笠原の島々を訪ねた。父島の書店で一冊の本を手にした時のこと。小笠原の歴史をたどる本の中の一枚の写真に目がとまった。一九一二(明治四十五)年、南極探検の白瀬中尉の船が帰途、父島で熱狂に迎えられている。船の名は「開南丸」だった。

 「南洋の極地の南極探検には財界からも手厚い支援があったはず。三井も名を連ねていたかどうかは不明だが、快挙を遂げた船の名を農場に冠したとしても不思議はない」と藤田。高精が手掛けていたのも南洋開拓、つまり「開南」。中川の着任時、農園を開墾していたのも八丈島からの移住者たちだった。

 官有地の払い下げを受けた開南組の約十二ヘクタールは、丘の斜面に雑木が茂る原野だった。中川は自らくわを振るい、農民たちを指導した。その教える技術が一風変わっていた。

 普通、春に植えるミカンの苗木を中川は着任の年の秋に植えた。寒さに向かう厳しい時期だが、冬場に土になじんで春の芽吹きが早い。「管理さえ良ければ春でも秋でも根付きは変わらない」という常識破りのアイデアだった。

 もう一つは、遠州のからっ風からミカンの木を守る防風・防寒対策。冬場の強風で葉が落ちてしまうと翌年、実がならない。それを防ぐ知識はまだ農家になかった。中川は「こも掛け」や防風垣を考案。やがて開南組の風物詩となった。

 大正半ば、米騒動を発端にした経済的混乱でミカン価格は低迷。現金収入を得やすい養蚕に転じるため、ミカンの木を伐採して桑畑に換える農家が後を絶たない“逆風”の時代だった。廃園する農家があると聞くと、中川は枯死寸前の成木を次々と買い取っては開墾地へ移植。そのどれもが瞬く間に大地にしっかりと根付いてよみがえった。うわさを聞き付けた近在の若い農家が一人、また一人と開南組に集まってきた。

=敬称略

(編集委員・八木義弘)

 

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