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西遠女子学園100周年 忘るるなかれ若き日を

校史(6) 戦時下の学園と動員学徒の殉難

3月10日の陸軍記念日に鍛冶町通りを行進する西遠の生徒たち

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30人の犠牲 忘れない

 「日本を戦争に巻き込んだのは私たち大人である。あなた方にペンをハンマーに換えて工場へ行けと命令したのも、私たち大人である。あなたたちは直接責任はないのに、黙々と国のために純粋な気持ちで励んでいてくれる。どんなにか書物に飢え活字に飢えているであろうに、真剣に働くあなた方を見るのにしのびない。戦争を起こし日本をこのような状態にした全責任は、私たち大人にある…」

 一九四四(昭和十九)年の春、岡本富郎は生徒たちに激しい口調で語りかけた。同席する憲兵もはばからずに−。

 ◇ ◇

 昭和十六年、生徒自治会は「錬成会」に、生徒総会・クラス会は「全体奉公会・学級奉公会」に。同十七年には食糧増産のため、農村での勤労奉仕や子どもたちを預かる“実習”が始まった。同十八年にはクラブ活動など生徒活動はすべて「報国隊」に編入。生徒の服装も、物資不足でセーラー服からネクタイがなくなり、スカートの代わりにもんぺ、肩から防空ずきんと布製の袋、という戦時スタイルになった。

 昭和十九年一月、学校設立者を「静岡県西遠高等女学校」から「静岡県西遠女子学園」に改称。また、淑徳女学校は家庭科系から戦争の役に立つ工業または商業科に転換をという文部省の指示で「浜松淑徳女子商業学校」に変更した。

 その年の七月、ついに西遠・淑徳にも学徒動員令が下った。生徒たちは河合楽器や鈴木織機などの工場で、軍用機につける落下式補助燃料タンクや砲弾などの軍需品を作り続けた。開かれることが極めて少なくなった授業の場では、生徒たちがむさぼるように学ぶ姿が見られた。

 昭和二十年四月三十日。B29の大空襲で、西遠の生徒十一人が死亡。同じ防空壕(ごう)にいた同級生五人の死を目の当たりにした柴谷こと(77)=高女三十四回、同市上石田町=は「まるで昨日のことのように思い出されます。地獄絵そのもの」と話す。空襲時に防衛隊として学校へ走り、その後自分のいた工場で友人二人が亡くなったと知った田島いそ代(77)=同三十三回、浜松市肴町=は「報告を受けた時の富郎先生の悲壮なお顔が忘れられません…」。

 さらに同五月十九日、淑徳の生徒十八人、付き添いの教員一人が犠牲になった。

 ◇ ◇

 昭和三十四年、戦争の犠牲となった生徒二十九人と教員一人の慰霊像「愛の灯」が学園内に作られた。除幕式の日、富郎は静かに語りかけた。「君たちをもう一度母校に迎えたい。そして温かく見守ってやりたいと思っていた」 

私と西遠 四年(高一)藤組 国松優海さん

 下校時のバスの中で見知らぬおばさんに「私も西遠に通ってたんだよ。懐かしいな」と声をかけられ、西遠の歴史を感じました。日ごろ、規則の厳しさに不満を感じることもありましたが、たくさんの先輩方が築きあげたこの伝統を大切にしていきたいと思いました。そして、私も次の世代に西遠の良さを伝えていきたいです。(文中敬称略)

 

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