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西遠女子学園100周年 忘るるなかれ若き日を

校史(4) 新校長誕生と西遠高等女学校の危機

1927(昭和2)年に建てられた大講堂。大きなシャンデリアが特徴だった

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魅力あふれる新校長

 大正から昭和へ−。「学校を任せられる人物はいないか」。岡本巌は後継者について真剣に考えるようになっていた。

 「とても優秀な若者がいる」。友人から若命(わかみこと)富郎の話を聞いた巌。富郎の実家のある横浜まで何度も足を運び、浜松に来てくれるよう頼んだ。その熱心さに心を打たれ、「まずは一年だけ」と一九二八(昭和三)年十月、富郎は西遠高等女学校に着任した。

 翌年二月、浜松淑徳女学校長だった巌の妻欽が死去。五十二歳だった。この欽の葬儀をきっかけに、富郎は岡本家を継ぐことに。同年四月から教壇に立つようになった。

 富郎の情熱にあふれる魅力ある授業は生徒たちに深い感動を与えた。榎谷あや(90)=高女二十一回、浜松市鴨江=は「みんなのあこがれの的でした」と振り返る。

 しかし三一年四月、入学生がわずか十七人という危機的状況に。世界大恐慌の影響が浜松地方にも及んだこと、大正末期ごろから遠州地方に女学校設置が相次いだことなどが響いた。

 「この難局を打開するには表面的な手段ではだめ。根本的な改革をして、特色ある新しい教育を始めよう。若い力に学校を任せるしかない」と巌は決心した。三二年六月、富郎が西遠高等女学校の新校長に就任。ときに富郎三十二歳。巌は“老校長”と呼ばれるようになった。

 「老校長は慈愛深い、重厚な雰囲気の方。富郎先生はとても人を引きつける魅力がありました」と、中村ふさゑ(89)=高女二十二回、同市倉松町=は懐かしむ。

 学校の危機を救おうと、生徒獲得のために教師、卒業生、在校生、保護者が一丸となって奔走する日々。富郎も何度も転びながら自転車の乗り方をマスター。精力的に小学六年の女の子のいる家庭を回り、西遠高女の教育について熱く訴えた。   

私と西遠 三年(中三)星組 高井香鶴子さん

 自由な時間ができるから−。これが私が西遠に入学した理由です。中高一貫なので、時間にゆとりがあり、勉強だけでなく読書にも時間を費やせることが魅力でした。

 新しくなった図書館でこれからいろいろな本を借り、読解力と知識を養うため、頑張りたいです。これからの時間を有効に使い、将来の目標へ確実に近づきたいです。(文中敬称略)

 

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