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興誠高校(現浜松学院高校)70周年 誠の精神

第1部 校史編 嵐の孤児 『声が大きい人は正直者』

自らを「嵐の孤児」とした廿日出厖氏。墓は興誠創立の地となった普済寺にある=浜松市広沢で

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 興誠学園理事長の神谷正平(85)=興3卒=は創立者・廿日出厖から直接、教えを受けた。「ガッチリした体格で“怖い”というイメージはあったが、ひと皮むけば生徒の話に耳を傾け、人情味あふれていた。ある日、同級生と喧嘩(けんか)をしたことが校長の耳に入り『人を殴るなら、鼓膜が破れないように殴れ』と手の甲で殴られた。痛かったが、気持ちよかった」と思い出す。

 教育に寄せる思いは人一倍だった廿日出。遠商を飛び出して興誠を開校するときも、生徒に動揺を与えないように何も知らせず、当日朝、全校生徒を校庭に集め「きょうから新しい学校に移る。詳しいことは普済寺に行ってから」とだけ話したという。

 神谷は「教育者というより哲学者で、言葉も文語体だった。悪いことをした生徒には停学や退学の罰を与えず、毎日通学させ草むしりや清掃をさせ改心の情をかけた」と語る。

 知育偏重に陥らず、知・徳・体の調和を求めた廿日出の教育方針は、やがて太平洋戦争の終結とともに大学開校も視野に入れた「大興誠学園構想」を生み、生徒や保護者、卒業生らの信頼を厚くした。戦後第一回の総選挙となった一九四六(昭和二十一)年、衆院に初当選。文教委員や憲法改正案特別委員として日本国憲法の制定に功績を挙げた。

 しかし、同年十月、戦前・戦中に軍国主義や極端な国粋主義を職員生徒に吹き込んだとして県教員適格審査委員会から不適格認定され、公職を追放。翌年十月、心労がたたり四十六歳で他界した。

 神谷は「私の声が大きいのは廿日出校長の教え。声が大きい人は『人の悪口が言えず正直者』と教えられた。生徒の信頼を集めた校長先生でした」。遺言通り遺骨の一部は富士山頂に埋められたが、それを実行したのは教え子や職員だった。

興誠を語る 3年 鈴木 優さん

 伝統に支えられる興誠バスケットボール部。女子バスケの先輩は昨年、県で4強、私たちはベスト8でした。先輩たちが築き上げた伝統を崩さぬよう、また、少しでも超えられるよう日々、上を目指して頑張っています。高校生活、「後悔」の二文字は残さない。

(卒業生の氏名に続く(興)は興誠商業学校、(高)は興誠高校(数字は卒業回数)、文中敬称略)

 

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