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興誠高校(現浜松学院高校)70周年 誠の精神

第1部 校史編 創立 遠江商業去り普済寺に寺子屋

開校当時の青空授業=1933年

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 興誠高校の歴史を語るには、その前史ともいえる、わずか九年で廃校となった「遠江商業」の存在を無視できない。

 遠江商業学校(通称=遠商)は、浜松市が織物産地から商工業都市に変ぼうしようとしていた一九二四(大正十三)年、商業の発展を担う人材育成を目的に、地元実業界の重鎮だった中村藤吉が校主となって設立された。校舎は浜松市住吉(現・城北小学校)。校長には曽我智道が就任した。

 ところが、開校間もなく個人経営がゆえの諸問題が噴出し、曽我校長が退任。代わって三〇年に、広島出身で内務大臣秘書をしていた廿日出厖(はつかで・ひろし)が二代校長に就き、実社会に通用する知・徳・体を兼ね備えた商業実務家の育成に取り組んだ。

 「人格の復興、道義の復興、さらに信念の復興こそは正に一括して至誠の復興というべきであり、至誠の復興こそ日本建国の大精神の振作復興でなければならない。『興誠』の名の選択原理もかかる大信念に基づくものであります」(廿日出厖先生追想録「嵐の孤児」より)

 この時、廿日出三十二歳。建学の理念を追い求める廿日出と経営を優先する校主との間に再び亀裂が生じ、三三年十月、組織改革を志す廿日出は職員、生徒約三百人とともに遠商を去り、普済寺(浜松市広沢)の本堂や野外で授業を開始。翌年十一月、文部大臣から学校設立許可を受け「興誠商業学校」として産声を上げることになった。

 浜松市入野町、坂本武夫(83)=興4卒=は「遠商を離れるときは、学校で何が起こっているのか私たち生徒は何も知らなかった。動揺を与えないように廿日出校長が配慮していたと思う。普済寺での授業は空が見える寺子屋。縁台を机代わりにして勉強しました」と懐かしむ。

興誠を語る 3年 市川 貴之ん

 興誠高校に入学できてよかった。今、僕はそう思います。

 英・仏への研修旅行は実に多くの貴重な経験となりました。しかも、その経験を共有できる良き友人、先生にも恵まれたことで、異国の地ゆえにかつてない自分、大人への道程を発見することができたと思っています。

(卒業生の氏名に続く(興)は興誠商業学校、(高)は興誠高校(数字は卒業回数)、文中敬称略)

 

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