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掛川西高100周年 天守の杜に

第3部 人物史編 連載に寄せて

物言わぬ世代の始まり 「転換期」に一石

ミキオ・E(江崎幹夫)さん=東京都練馬区の自宅で

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 二十一世紀を間近に控え、既存の社会システムが次々と崩れ、教育の世界も改革が叫ばれている。コピーライターでコラムニスト、作家のミキオ・Eさん(本名江崎幹夫、昭46卒)=東京都練馬区=が、高校時代に出合った衝撃的な出来事を通じ、教育に対して抱き続けた思いを連載のために寄稿した。「暴論と受け止められるかもしれないが、時代の転換期だからこそ、あえて一石を投じたい」と語る。

 一九六九(昭和四十四)年春、僕は掛川西高に入学した。中一の終わりに患った病気の影響で、かつての同級生たちから二年遅れの入学だった。

 入学式は、いきなり怒声が飛び交う異様な光景だった。七〇年安保を前に、しかし全国的にも珍しい高校生自身による学園紛争の真っただ中に社会的イノセンスの塊のような新入生たちは放り込まれたのだった。僕は強烈なショックを受けた。

 活動の先頭に立って疾走しているのは小学生時代の良きライバルであり、友人だった。彼が最上級生で、僕がただの一年生であることを思い知らされた。それまで学校というものが不動の価値と権威を持つものとばかり思っていた僕の目の前で、かつてのライバルは難解な言辞で演説し、制止する教師群とにらみ合い、もみ合う。明らかにそれは厳粛な教育現場における反乱で、僕はただぼうぜんとするばかりだった。

 彼が社会の矛盾を問い、正義の実現を唱えていることは分かっても、打破すべき教育体制の実態が何であり、アスパックはなぜ中止されなければならないのか…。

 二年間の病床で得た文学的な感興や知的成長の自負は、あっと言う間に吹き飛んだ。過激である、秩序を乱すなど、当時の無垢(く)な僕にさえも取るに足らないと思えた理由の下に、学校は反乱者たちを一般学生から引き離した。問題が何であって、彼らの主張が何なのか説明はなく、議論さえもされなかった。そのとき、教育は放棄されたのだ。

 やがて、無説明という最大最強の圧力の下、紛争にかかわった上級生たちに処分が下され、僕の小学校時代のライバルはこつ然と姿を消した。退学処分になったと知ったのは、紛争に声さえ上げなかった「物言わぬ」級友たちのうわさ話でだった。

 僕はその後、二年遅れの同期生たちとともに同世代とひとくくりに呼ばれ続けた。大学に入ったころ、僕らは「しらけ世代」あるいは「三無主義」の若者と形容された。

 戦後民主主義教育の、それは大きな転機だった。ごくわずかな例外を除き、高校生が社会正義を口にし、模索して活動することはなくなった。議論はダサいことと見られ、物言わぬ僕ら世代は、ついには日の丸・君が代の法制化という愚行を許した。

 方法論の是非でなく、あれがもし大都市での出来事だったら、僕のライバルに退学処分は科されなかったと今も思う。僕は「人権田舎」と捨てゼリフを残して掛西を卒業した。「生まじめな殉教者」とともに声を上げなかった悔恨の情、あるいは敗残者としての意識は今も残っている。

(文中敬称略)

 ミキオ・Eさん 一九五一(昭和二十六)年、大須賀町生まれ。父の死後、四−二十歳を掛川市で過ごす。中学時代に骨髄炎を患い二年間休学。掛川西高卒業後、早大に進むも中退。コピーライターを生業としたが六年前に骨髄炎が再発。以来、コラム、小説などを創作。昨年度、掛川を舞台にした児童文学作品「おけちゅう」が第八回小川未明文学賞大賞を受賞。義父は直木賞作家の江崎誠致氏。

 アスパック(ASPAC) アジア太平洋閣僚会議。ベトナム戦争がし烈を極める中で一九六九(昭和四十四)年六月、伊東市川奈で開かれ、米国のベトナム本格介入に反対を叫ぶ学生らがデモと投石で機動隊と衝突。参加した掛川西高三年生徒の無期謹慎処分をめぐり、一部生徒グループが処分撤回を求める抗議行動を展開。外部団体も乗り込み“掛西紛争”と呼ばれる騒動に発展した。学校側は「学校の指導は限界」と判断して自主退学を含め、退学・謹慎処分十二人を出した。 

 

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