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掛川西高100周年 天守の杜に

第3部 人物史編 天守閣復元

市民の心の支えに 史実に忠実な本物を

天守閣復元のために集めた資料を手にする粕谷重範さん=掛川市内で

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 鉄道で滋賀県・彦根を通過するたびに、車窓から白い天守閣が目に飛び込んでくる。「掛川も東海道線から城が見えれば、どんなに町の存在感が増すだろうか」。粕谷重範(昭10卒)=掛川市上西郷=はいつも思い焦がれていた。

 掛川は東海道の要所。古くから城下町として栄えてきた場所だ。昭和六十二年、白木ハナエ=掛川市富部=からの寄付(計五億円)を契機に、市民の悲願・掛川城天守閣の復元計画はにわかに具体性を持ち始める。そして榛村純一市長(昭28卒)からの、復元への協力依頼−。「本当に可能なのか」という不安と同時に頭にひらめいた彦根城の姿が「ぜひ実現させよう」と粕谷を決意させた。

 六十三年十二月、歴史学者の若林淳之・静岡学園短大学長、小和田哲男・静岡大教授、掛川城の研究で知られる郷土史家の関七郎(昭27卒)らを交えて復元調査委員会を発足。設計には、交流があった城郭研究家の宮上茂隆工学博士を招いた。天守台の地質と強度の調査も開始。「委員会では、違う城や新しいものを造るのではなく、史実に忠実な、山内一豊が愛した本物を復元しようとの認識で一致していました」。全国初の、木造での復元が決まった。

 関がそれまで調べ上げていた知識を役立て、嘉永四(一八五一)年に天守台北面の石垣と芝土手が崩壊した状況を記した「御天守台石垣芝土手崩所絵図」の写本なども入手。一豊が掛川城を模して造らせた高知城へ何度も足を運び、形や構造、間取りを確認した。「何しろ最初は高知城のこともうわさに聞いていた程度。一つ、また一つと資料を集めました」

 図面が出来上がっても、当時の工法に耐える木材があるのか−と次々に課題が待ち受ける。元通りに復元すれば、屋根裏まで上る階段は狭く、急で、足の弱いお年寄りたちは気軽に絶景を楽しむこともできない。天守閣を「観光客を呼び込める仕様にしてほしい」と言う市民もいる。

 区長会を通じて「観光資源ではなく、市民の心の支えとしての天守閣復元。本物を復元してこそ、後で『本当に建ててよかった』と思えるはず。そうでなければ、一豊が城を愛した思いも、掛川の歴史も生きない」と説得を続けた。

 平成五年、三層四階、白のしっくいと、黒漆塗りの回縁勾欄(かいえんこうらん)が青空に照り映える天守閣の全容が現れ、掛川の風景を一新した。

 地元住民へのお披露目の日。急な階段を上りながら「昔の人は足腰が達者だったんだなあ」といにしえを想像する声があちこちから漏れる−。粕谷の胸に熱いものが込み上げた。「ああよかったと、やはり掛川は城の町だと実感しました。郷土史家みょうりに尽きる事業でした」

 今、新幹線で東海道を行く。「間もなく掛川に到着−」のアナウンスが響くと、北側の車窓に天守閣の威容が映る。木の文化や歴史への憧憬(どうけい)、困難な事業をやり遂げるチャレンジャースピリット−そのすべてをのみ込み、天守閣は郷土のシンボルとして在り続ける。真下に広がる掛川西高校の新世紀を見守りながら。

(文中敬称略)

 

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