トップ > 静岡 > 高校・大学周年特集 > 掛川西高100周年 > 記事

ここから本文

掛川西高100周年 天守の杜に

第3部 人物史編 ブラジル移民の父

”平野コロニー開殖” 功績たたえ石碑建立

運平氏の功績をたたえ日系ブラジル人と地元有志らが建立した石碑=天竜市光明山山頂で

写真

 「尊徳のように荒れ地を切り開き、良一郎が望んだ語学力を備えた人物が、第一回卒業生二十九人の中に存在した。それが、知る人ぞ知る平野運平(明37卒、故人)です」

 高木敏男(昭32卒)=掛川芙蓉会理事長=は、一人の大先輩をそう形容する。掛川西高の前史「冀北(きほく)学舎」の創立者・岡田良一郎が私塾教育の理念とした二宮尊徳の報徳思想。運平はもちろん、それと一線を画する新生・掛川中学の出身だが、明治四十一年、ブラジルに渡った日本移民団第一陣の通訳兼指導者として活躍、現在も「日系人社会の礎を築いた父」と慕われている。

 ブラジル・サンパウロ新聞の記者と親交がある高木の自宅には、運平に関する記事が掲載されるごとに現地から新聞が届く。それらの資料によると、運平は掛川市初馬の旧士族・榛葉家の二男に生まれ、掛中を出た後の明治三十九年に天竜市横川の平野家の養子となった。この間、東京外語大に進んでスペイン語を学ぶが、移民通訳になることを決心して中退。第一回ブラジル移民船「笠戸丸」に乗り込んだ約八百人の移住者よりも一足早く現地に到着していたという。

 「日本の裏側へ十年ほど行ってくる。心配しないで」。運平のおいに当たる平野甫(昭16卒)=天竜市横川=は、叔父が残したこんな言葉を伝え聞いている。「とにかく豪快な性格だったと聞くが、平野家の敷居をまたいだのは、この時を含め二回だけ。面影すらあまりないんです」

 移民団には運平を含め五人の通訳がいて、五班に分かれコーヒー園に入植したが、渡伯前に聞いた話とは大違い。重労働、低賃金の過酷な生活を余儀なくされた。通訳は不満を噴出する移民と農場監督の板挟みに遭い、統制のとれない班が移民たちの逃亡などで次々と壊滅したという。

 そんな中で、運平は信望を集め、わずか一年余りで農場のナンバー2に抜てき。さらに「移民が農園労働者でいる限り豊かな生活は望めない」と判断するや、日本人の独立農園を始めようと奥地の原始林を切り開き、約四千ヘクタールの“平野コロニー”を開殖した。この苦闘と成功譚(たん)は北杜夫の小説「輝ける碧(あお)き空の下で」にも描かれている。

 「大酒飲みで、いつもピンガ(ブラジル産の酒)をラッパ飲みしていたと伝えられる運平だが、一説にはマラリヤ、スペイン風邪などの病魔に侵されながら、移民のために激務を果たそうと酒で痛みを散らしていたらしい」と高木。事実、運平の寿命は短く、帰国を待たずわずか三十四歳で波乱の人生に幕を閉じている。

 平成十年二月、運平の位はいが九十年ぶりに“里帰り”して、天竜市二俣町の清滝寺に安置され供養祭が営まれた。同年五月には同市の光明山山頂に日系ブラジル人と地元有志らが「拓魂」と刻まれた石碑を建立し、その功績をたたえた。甫は「今は多くの日系ブラジル人が日本に“移民”する時代。運平が再び話題になることで、日伯両国が親ぼくを深めてくれればありがたい」と穏やかに語った。

(文中敬称略)

 

この記事を印刷する

中日新聞・北陸中日新聞・日刊県民福井 読者の方は中日新聞プラスで豊富な記事を読めます。

中日新聞しずおかの記事はこちら

新聞購読のご案内

PR情報

地域のニュース
愛知
岐阜
三重
静岡
長野
福井
滋賀
石川
富山

Search | 検索