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掛川西高100周年 天守の杜に

第2部 部活動編 東海の速球王・村松幸雄

プロ入り後も母校へ姿 昭和19年、グアムで戦死

掛川中学当時の村松投手

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 昭和十六年十一月三十日。後楽園球場で、現在のプロ野球オールスター戦にあたる東西対抗戦・第二戦が開かれた。

 マウンド上の、一八〇センチ近い長身から怪腕をうならせるのは、名古屋軍(現・中日ドラゴンズ)のエース村松幸雄(昭13卒・故)。中盤から東軍のリリーフに立った村松は五、六回を無失点に抑え、七回一死一、三塁の場面を迎えたところで交代した。その八日後の十二月八日、太平洋戦争がぼっ発。直後の召集、出征。のちに“打撃の神様”といわれる強打者川上哲治を三振にとるほどの剛速球と、背番号18を再び見ることはなかった。

 生まれは藤枝。県大会の尋常高等科部で二連覇の快挙を遂げ「藤枝に快速球児あり」とうたわれていた村松が、甲子園を目指す小宮一夫監督の五カ年計画の切り札として掛川中に入学したのが昭和九年。監督の自宅離れで下宿生活を始めた新入りの村松を、四年先輩の捕手平野哲次郎(昭9卒)=金谷町金谷=が振り返る。

 「ひょろひょろっとして、背だけは高い。県大会制覇といってもたかだか小学校。どんな球が投げられるか、と入部早々キャッチボールをしたんだ。ところが、右のオーバーハンドから繰り出す直球の速いったらない。今でもミット越しの手の激痛を覚えている」

 野球好きの父や兄の影響で幼いころから野球に親しんだ村松は、小学校五年で身長が一七〇センチ近くあり、大人顔負けの直球を投げていたという。「スナップ練習のため、父親のたばこの銀紙を丸めてボール代わりにし、自宅近くの蓮華寺池の周りをランニングしていたようです」と藤枝市本町に住む義姉の村松きみ(79)。

 一年でレギュラーとなった村松だが、その年の県大会三回戦で掛川中は強豪・島田商に0−17と大敗。試合後、「悔しかったら練習量で負けるな」との小宮監督のゲキに発奮したナインが、その日から“打倒島商”を合言葉に猛練習に励み、村松が最終学年となった五年後に宿願の甲子園出場を果たした−そんなエピソードが語り継がれている。

 プロ入りした後も、村松は母校へよく顔を見せた。村松にあこがれ藤枝小−掛川中と同じ道を歩んだという相馬円一郎(昭18卒)=藤枝市本町=は「雲の上の存在でしたが、ある日ひょっこり名古屋軍のユニホームでグラウンドへ現れ、投球フォームを教えてくれたり、打撃投手をしてくれた。ボールやバットもたくさん差し入れてくれ、後輩思いでした」と人柄をしのぶ。

 昭和十九年七月二十五日、グアムで戦死。プロ三年間の登板89試合で38勝26敗、40完投9完封、生涯防御率1・26。巨人軍の速球投手沢村栄治が台湾沖で戦死したのも、やはり十九年の十二月だった。最後のマウンドとなった東西対抗戦終了後には選手全員がボールにサインし、その一つが今でも村松の実家に残っている。

(文中敬称略)

 

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