トップ > 静岡 > 高校・大学周年特集 > 掛川西高100周年 > 記事

ここから本文

掛川西高100周年 天守の杜に

第2部 部活動編 野球部誕生

底辺広げ実力校に OBが少年野球に力

初出場した甲子園で記念碑の前に整列する掛川中ナイン=昭和13年

写真

 この連載が始まって間もない五月、浜松市内の女性から本社に一通の手紙が届いた。

 「女ばかり三人生まれた後の長男の出生に父は大喜び…。大事に大事に育てられました」。昭和十九年の夏。掛川中学(現掛川西高)の三年生だったその兄が、ある日、いきなり父に打ち明ける。海軍の予科練へ入り、特攻隊に志願するという。まだあどけなさの残る野球少年が、戦地の空に血潮をたぎらせ、学業半ばで家を去っていく。将来を楽しみにしていた父の驚き。夜遅くまでの二人の口論を、蚊帳(かや)の寝床で息をひそめて聞いた、あの日の記憶…。戦時下の掛中野球部の捕手で活躍した鈴木圭七郎(昭21卒=出撃直前に敗戦、復学)の姉・鈴木道子(69)=同市佐鳴台=の心によみがえる、今は亡き兄の思い出だ。“野球の掛西”の青春譜を探ってみる。

 春夏合わせて八回=別表=の甲子園出場経験を持つ掛川西高野球部は、明治三十四年の学校創立とほぼ同時期に、文芸、会計、撃剣、柔道、フットボールなど十一部とともに校友会として産声を上げた。

 「野球部といっても当時は部員も少なく、他校から“挑戦状”をもらうと、柔道部や庭球部などから野球好きの生徒を集めて、にわかづくりのチームで対戦していたようだ」と野球部OB会の松浦博三会長(昭23卒)=掛川市。

 その野球部がめきめき実力をつけたのは、大正時代の後半から。ショートで鳴らした戸田敬一(大3卒・故)が卒業後、地元で書店を営む傍ら「母校を強くするにはもっと底辺を広げ、子どもたちに刺激を与えないと」と町の少年野球チームづくりを提唱。五クラブでのリーグ戦を行い、技術向上と基礎固めに乗り出した。

 成果はたちまち表れた。当時の掛川中生を主力とした掛川チームは、全国少年野球大会で大正十二、十三年の連続準優勝に続き、同十四年には並み居る強豪を押しのけ堂々の優勝。掛川は一躍“野球の町”として全国に名を知られ、小学校で鍛えられた少年野球選手が続々と掛川中に入学した。

 「静岡中には及ばなかったが、同じ県西部の浜松中とはすぐ肩を並べるまでに成長したようだ」と、捕手として活躍した中川秀雄(昭10卒)=千葉県市川市。寄り合い所帯から始まった野球が、野球部として形を整えたのもこのころだ。

 地方ならではの苦労もあった。有名になったおかげで、地元の小学校の有力選手が今度は名門校から次々とスカウトされ、県外へ去っていってしまう。「愛知の中京商が全国中学校優勝野球大会で三年連続優勝(昭和六−八年)した時のバッテリーが掛川出身だったように“有望選手は他県へ”というコースができてしまった。そのまま掛中に進んでいれば、静岡中を下すのも夢ではなかったのだが…」(松浦)。当時、掛川高小と県内の少年野球界を二分していた二俣高小から積極的にスカウトしていた静岡中と、選手層の差は歴然だった。

 この後、掛川中は毎年一回戦敗退がお決まりの低迷期が続く。鳴かず飛ばずの後輩たちに切歯やく腕のOBや後援会。そんな野球部に一つの転機が訪れた。ある年、母校東大の野球部の練習に掛中ナインを引き連れていった九代校長・多木悦造の目に、内野手小宮一夫の巧みな指導と熱血漢ぶりが焼きついた。

 「何とか掛中を強くしてくれないか」

 卒業を待っての多木の説得に、その小宮が国史の教諭として掛川中に着任した。戦前の黄金時代が始まる昭和七年のことだ。

(文中敬称略)

 

この記事を印刷する

中日新聞・北陸中日新聞・日刊県民福井 読者の方は中日新聞プラスで豊富な記事を読めます。

中日新聞しずおかの記事はこちら

新聞購読のご案内

PR情報

地域のニュース
愛知
岐阜
三重
静岡
長野
福井
滋賀
石川
富山

Search | 検索